マーシャル・マクルーハンは著書『メディア論』(1964年)の中で、宣教師がかつてオーストラリアの土着民に鋼鉄の斧を無分別に与えた話を紹介している。宣教師は誰かまわず女性や子どもにも鋼鉄の斧を与えてしまい、それまでは男性が貴重な石斧を占有することで成り立っていた現地の文化を破壊してしまった。

彼はまた、産業革命における機械による大量生産のせいで手工業が衰退し、家長である男が女と同じ工場労働者になることによって、男の権威や地位が下がり、家庭崩壊や同性愛志向が広まったとも指摘している。つまり、いろいろなメディアの支配は権力の基本的要件でもあり、それを失うことは権力の失墜にもつながり、ひいては社会のあり方も変わってしまうことになる。

害悪と見るか、創造的破壊と捉えるか

大規模なコミュニケーションを可能にするメディアは、常に国が主導し安全保障の問題と表裏一体になって運営されてきた。しかしデジタル・メディアが自由競争の中でより民間主導で進められる現在、その場はビジネスや家庭へも及んできている。今後も新しいメディアによってチャンスを得る者と、既得権を失う者の確執は常に生じてくるだろうが、それはいままでも世代や組織間で繰り返されてきたドラマでもある。

服部桂『マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス)

それを害悪と見るか創造的破壊と捉えるかは、参画する人の立場によって違ってくる。マクルーハンは哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんどこなごなに壊すような過程である」という言葉でメディアの社会に与える影響を論じているが、それは現在発展中のデジタル・メディアにも当てはまるだろう。

王室が小さな個人の携帯電話に攪乱されている姿は、アリに驚くゾウの寓話を連想させるが、これらのことが何か滑稽に思える一方で、必ずしも特異なことには思えないのはなぜだろう。それは、いまやデジタル・メディアの登場で、このダビデと巨人ゴリアテの物語のようなことが、各所でいろいろなレベルで演じられているからではないだろうか。

服部桂(はっとり・かつら)
ジャーナリスト
1951年、東京都出身。早稲田大学理工学部で修士取得後、1978年に朝日新聞に入社。16年に朝日新聞社を定年退職後フリーに。著書に『メディアの予言者 マクルーハン再発見』(広済堂ライブラリー)ほか。訳書に『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)などがある。