2011年、女子サッカーワールドカップでなでしこジャパンが優勝した。そこには佐々木則夫監督の前例のないチームづくりがあった。なでしこジャパンを優勝に導いた佐々木監督の采配、澤穂希選手のリーダーシップはどのように発揮されたのか。チームドクターだった山藤賢氏に、イーオンの三宅義和社長が聞いた――。

怪我でサッカーを断念し、医師を目指す

【三宅義和・イーオン社長】山藤賢先生は、女子サッカー日本代表なでしこジャパンのチームドクターとして活躍されていました。現在、臨床医としては東京都サッカー協会の医学委員長として2020年の東京オリンピックパラリンピックにも関わるお立場ですが、本業は、医療法人の理事長として複数の医療機関を経営されていると同時に、昭和医療技術専門学校長として臨床検査技師を目指す学生たちの教育にも携わっておられます。実は、私と山藤先生は心身統一合氣道会の同門でもあります。

山藤賢・医療社団法人昭和育英会理事長・昭和医療技術専門学校校長

最初に山藤先生とサッカーとの出合いについてお聞きしたいのですが、山藤先生がサッカーに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか。Jリーグ発足は1992年で、それ以前、サッカーは決してメジャーな競技ではなかったと思うのですが。

【山藤賢・医療社団法人昭和育英会理事長・昭和医療技術専門学校校長・スポーツドクター】サッカーボールを蹴ったのは幼稚園の頃でした。野球が大好きで巨人ファンだったのですが、僕の入った暁星小学校は、フランス人宣教師が始めた学校だったので、サッカーが校技でした。そこで部活として本格的にサッカーを始めました。中学・高等部は全国大会の常連校でした。

【三宅】山藤先生も出場されたのですか。

【山藤】レギュラーとしては中学のときに東京都で優勝し、全国に出ました。ベスト16まで進みました。ポジションは、小学校のときはセンターフォワードでしたが、中学時代はミッドフィルダー、全国大会ではディフェンスの中央でしたかね……、だんだんポジションが下がっていく、上手ではない選手のパターンです(笑)。

【三宅】いやいや、ディフェンスの真ん中は重要ですよ。ところで、山藤先生は医学部に進学されるわけですが、サッカーと受験勉強の両立は大変だったのではないですか。

【山藤】全国ベスト4まで勝ち進んだ高校1年のときは控え選手でした。高校2年になるとレギュラークラスでプレーする機会も出てきましたが、怪我をきっかけにいろいろな葛藤があり、関東大会の出場も決まって、背番号もいただいていたのに、サッカーから離れてしまいました。

その時は、全国大会だけを目指してきたので目標を見失ってしまっていました。でもアスリートとしてではなく、自分が悩んだような怪我を診断し、治療できる医師になろうと決意しました。そしてプレーヤーとしては日の丸はつけれないけど、ドクターとして日の丸をつけてピッチに立つのを夢に、高校2年の夏頃から突然(笑)、受験勉強を開始しました。

【三宅】それで、医学部に進まれた。しかも、結果的に女子サッカーの代表チームのチームドクターとしてオリンピックやワールドカップに同行され夢も叶えられたわけですね。そんな山藤先生にとってサッカーの魅力は、スバリ何でしょうか。

【山藤】もちろん競技としての魅力は多分にありますが、実は個人的にはプレーヤーとして、僕が一番好きなプレーは、味方から受けたボールをゴール前に出す。そのパスを誰かが見事にシュートして得点することなんです。

【三宅】アシストですね。

【山藤】もちろん、みずから点を取るのも、相手からボールを奪うのもサッカーの醍醐味ですが、アシストをして、シュートを決めた仲間が喜んで僕のところに走ってきて、「いいボールをありがとう」と言ってくれるときが大好きでした(笑)。

【三宅】山藤先生らしいですね。

【山藤】ありがとうございます(笑)。今、振り返ると、誰かが預けてくれたものをまた誰かに渡すことによって達成できる繋ぐことの喜びみたいなものが好きだったんでしょうね。