大統領になって人が変わった「実直な実務家」
朴正熙はいったいどんな人物だったのでしょうか。彼は1917年、貧しい家に生まれ、日本の陸軍士官学校を留学生首席で卒業します。卒業後は、関東軍指揮下の満州国軍に所属していました。日本名は高木正雄です。朴は若い時から、真面目な性格で信用があり、出世頭でしたが、目立つ存在ではありませんでした。社交家でもなく、親分肌でもなく、派閥を形成するようなタイプでもありません。勤勉な実務家でした。
朴は1961年の「5・16軍事クーデター」で実権を握ります。このクーデターの実際の立役者は金鍾泌(キム・ジョンピル)でした。金鍾泌は朴よりも9歳年下の切れ者で、陸軍の情報局に所属していた諜報(ちょうほう)のプロでした。クーデター当時35歳だった金鍾泌は、軍や政権の情報を一手に握っていました。
李承晩時代からの腐敗政治で軍の首脳部は腐り切っており、軍のガバナンスもほとんど機能していませんでした。国民から見放されていた政権や軍首脳部は、ほんの一押しで倒れると金鍾泌は読んでいました。
金鍾泌ら情報局にとって、クーデターの頭目になる人物は誰でも良かったのですが、実直で信頼できる人物がふさわしいということで、朴正熙に白羽の矢が立てられたのです。朴正熙は金鍾泌が用意したみこしに乗ったに過ぎません。
ところが、実直とされた朴は大統領になると、人が変わりました。権力に取りつかれ、自分に従順なイエスマンを侍(はべ)らせ、腐敗政治を横行させました。立役者の金鍾泌も遠ざけるようになり、揚げ句には、金鍾泌が大統領の座を狙っていると疑い、彼の自宅を検察に強制捜査させたこともありました。
朴は非常に猜疑心(さいぎしん)が強い人間だったのです。また、寡黙で温厚とされた反面、かんしゃく持ちで、怒りに火が付くと手に負えないタイプの人間でした。「清廉であった」という評価もありますが、女性問題が絶えず、妻の陸英修とたびたび言い争うような一面もあったようです。