日本にはきわめて優れた武器があった

各国の交渉官の後ろには、政府機関や各種団体などの利害関係者がおり、なかにはTPPに反対の勢力もいる。折衝は大きな負担だ。そこで、対策本部のメンバーが自分たちの本来の仕事を抱えながらも、並行して各国へ個別に出向き、交渉官および利害関係者と一緒に協議しながら、解決策の相談に乗り、協力を惜しまなかった。これは日本にとって「徳を積む」ことになるとわれわれは考えた。特に日本は発展途上のアジアの国々に対して、経済大国として一つの責任がある。

「徳を積む」という考え方は日本独特かもしれない。実際、自国の課題だけでなく、他の参加国へも協力を行ったのは、おそらく日本だけだろう。ただ、善意は伝わる。こうした見えない努力の一つ一つの積み上げが、その後の交渉における各国の日本に対する好意的な姿勢につながったように思う。

繰り返すが、交渉とは互いにぎりぎりのところで合意に至る共同作業である。その意味では交渉相手はともに成果を導き出す同志でもある。そのため、「寝食を共にする」というわけではないが、会合の場を離れ、相手の交渉官を誘って食事に連れ出すこともあった。その際、日本にはきわめて優れた武器があった。和食だ。世界無形文化遺産にも認定された和食の人気は絶大で、会合が開かれるような場所には必ず、和食レストランがある。和食の食事に誘うと、忙しいときでも相手は応じてくれた。食事の場では仕事の話はこちらからはしない。場を設けた側が自分の話したいことを話すのは最低のマナーで、相手の話を聞く姿勢に徹する。これまでやってきた仕事のこと、家族の話題、趣味の話……それなりに地位のある人たちの話題は実に豊富だ。時には、公式の場ではなかなかできないような話も、「ここは2人だから聞くが、このところはどうなのか教えてくれないか」と内々に聞いてくるようなこともある。こうして親交を重ねることも、互いに信用していく過程では不可欠なことだった。

交渉は人間対人間が向き合う場で、すべてが手づくりの世界だ。TPP交渉もそうだった。会合を重ねていくうちに、相手に対する知識も理解も深まっていく。互いに納得を得ながら、さながら絨毯を織り上げるように、一つ一つ丁寧に積み上げていく。それには駆け引きは無用で、誠実さこそが基本になることを胸に刻むべきだろう。

(勝見 明=構成 尾関裕士=撮影 AFLO=写真)
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