私にとっての鬼上司は、東レ中興の祖ともいわれる前田勝之助名誉会長である。1985年、プラザ合意がなされ、急激な円高が進行した。その際、赤字を余儀なくされた東レの繊維事業を担当役員として2年で黒字化した人物だ。当時、その情熱と仕事の手法を繊維企画管理部の課長として目の当たりにし、私は「東レにも恐るべき人がいる」と感じた。

東レ名誉会長 前田勝之助氏●1931年生まれ。56年東洋レーヨン(現・東レ)入社。同社の社長、会長歴任。経済団体連合会副会長も務めた。(写真=読売新聞/AFLO)

そして87年、前田氏は末席常務から14人抜きで社長に就任。彼は経営企画室を一新し、繊維、プラスチック、ケミカル、複合材料、新事業、研究、財務経理、国際の各分野のエキスパート8人を招集し、経営スピードを加速させようとした。そして、私も繊維担当としてその内示を受けた。

新体制の陣容は、部長4人、次長3人、課長1人。このたった1人の課長というのが私である。まだ42歳で最年少だったこともあり、ビジネスマンとして身の引き締まる思いだったことを、昨日のことのように思い出す。

ところが、いざ前田社長の身近に仕えてみると、いつも怒鳴り散らしているばかりで、スタッフを褒めることは絶対といっていいほどないことに驚いた。ただし、よく見ていると、叱り甲斐のある社員を叱っているではないか。どうでもいい社員は無視である。実は私もよく雷を落とされたクチだった。

あるとき、前田社長の通商産業省(現経済産業省)訪問に同行することになった。スケジュールでは本社を午前10時出発だが、社長はいつも少しばかり遅れる。どうしても急ぎの仕事を抱えていた私はそれを見越して、ギリギリ2、3分前に玄関に着くようにした。

すると、すでに社長専用車が玄関先に停まっていて、なんと後部座席には前田社長が座っているではないか。それから通産省に着くまで車内で罵倒され続けた。大声で「どんな場合でも10分以上前に来て待っていろ!」「社長である俺を待たせる貴様にはビジネスマンの資格はない!」と、耳をふさぎたくなるほどだった。

どちらかというと、私には要領のいい面がある。仕事の軽重を自分の物差しで判断して、簡単な仕事ではけっこう手を抜く。おそらく、そうしたやや傲慢なところを見抜かれていたのだろう。いまのうちに高い鼻をへし折ってやろうという親心だったのかもしれない。