運も同じだろう。自分のものにしようと近づいていくと嫌われて逃げられる。運に近づきたければ、つかまえるというより、触れさせていただくという気持ちでやわらかくアプローチする。それが肝要だ。
では、どうすればやわらかく触れられるのか。私は「感覚の動き」で運に触れる。感覚の動きは、運動の動きとは違う。運動は同じ動きを繰り返して体に覚えさせるが、感覚の動きはその都度違って、動きそのものを覚えても意味がない。自然と一体となった動きとでもいえばイメージしやすいだろうか。
桟橋で危険を感じたらどうするか
運について、多くの人が勘違いしていることがもう一つある。普通の人は、思いがけない得をしたときに「自分は運がいい」と考える。しかし、勝ったり儲けたりしても、精神のしあわせにつながるとはかぎらない。私は人生の成功者と言われる人たちから相談を受けることがあるが、見た目の華やかさと違って、内実はぼろぼろであることも多い。彼らの悩みを聞いていると、勝ったことが不運だったのではないかとさえ思えてくる。
私にとって運は、勝利や利益をもたらしてくれるものではない。運とは、絶体絶命のピンチに陥ったときに何気なく助けてくれるもの。つまり負けから救ってくれるのが運である。
代打ちをやっていたころから、私は数々の修羅場を経験してきた。下手をすれば命がなかったという経験は一度や二度ではない。ピンチを潜り抜けてこられたのは、いつもギリギリのところで運に助けられたからだった。