力と力でせめぎ合う戦国時代。黒田官兵衛は並外れた智謀で世を動かした。彼の知略、奇策、説得術から現代のビジネスマンは何を学ぶべきか。官兵衛通の、東京電力取締役会長 數土文夫氏、企業再生請負人 冨山和彦氏、京都造形芸術大学教授 松平定知氏が語る。
千載一遇の「チャンスの掴み方」
【松平】本能寺の変のあとの終戦処理の見事さについて、是非みなさんの意見をうかがいたいと思います。
【數土】その前に、まず、なぜ信長は明智光秀が嫌いだったのかについて、私の推論を披露させていただきます。一般的に、光秀は頭がいいといわれていますが、実際には、彼が詳しいのは日本に限った宮中の有職故実だけですから、中国の古典を勉強している竹中半兵衛や黒田官兵衛たちに比べると、信長の目にはずいぶん小さい人間に映ったことでしょう。ましてや信長は、有職故実のような古い日本の体制を打ち壊せという価値観の持ち主ですから、「宮中では」みたいなことばかり賢しらに言う光秀が嫌われるのは、当たり前といえば当たり前なのです。
【松平】6月2日に信長は死ぬ。その報は翌日官兵衛に届く。彼は信長の死を隠してわずか3日で毛利と講和する。しかも、ちゃっかり毛利の旗を借りたりもしている。鮮やかすぎると思うんです。私は「本能寺」の脚本は官兵衛が書いたとさえ思うのです。まず援軍を信長に頼みますね、あそこからそうなのではないか。信長には当時5人の師団長がいました。それぞれ信長から任務を負わされていた。柴田勝家には上杉対策を、丹羽長秀は長宗我部、滝川一益は北条、秀吉は毛利対策でした。
信長の性格として、この4人が同じ歩調で任務遂行にあたっていれば問題はないのですが、一人でも突出すると「もぐらたたき」になるのは必定。そしてそのとき、結果が出そうだったのは秀吉だけでした。この際、「信長様のおかげで勝てました」というかたちをとるほうが、秀吉にとってはいい。そう官兵衛は判断したのではないか。SOSを出せば、信長は「そのために光秀を遊軍にしておいたのだから」と援軍の将に光秀を選ぶだろう。そしてあのとき、信長は家康接待のために非武装で京都にいる。しかもそのとき、任務遂行のため、4人の師団長は、それぞれ現地に張りついていて、京にはいない。しかもしかも、光秀は秀吉を助けるために1万を超す兵隊を持って、ただひとり京にいる。官兵衛は光秀ならここをチャンスと思うだろうと考えていたのではないか。
【冨山】当然そういうシミュレーションも準備していたと思います。官兵衛はパスツールの言う「チャンスは備えあるところに訪れる」を地でいく人間ですからね。
【數土】それに、官兵衛はあらゆる面で抜かりがない。高松城の水攻めも、何カ月で堤防の内側が満杯になるか、いまの土木技術でも難しいのに、ちゃんとわかってやっているし、土嚢がひとついくらだから、全部でいくらかかるという計算もしています。