人との出会いが、人生を変えるキッカケとなる

昭和シェル石油 香藤繁常会長兼CEO

青年期における人との出会い――。それは後々の人生にとって大きな財産になる。誰しもそうだろうが、柔軟な感性で日々を過ごしている時代に、自分とは異なる生い立ちや境遇の人たちとの触れあうことは、人生に新しい視座や価値観をもたらしてくれる。

団塊世代のはしりに生まれ、大学入学と同時に地元広島から、親元を離れて上京し、学生生活を過ごした私にとっては、とりわけその思いが強い。

1966年4月、私は中央大学法学部に入学した。しかし大学は、学費値上げ反対闘争が発端となった大学紛争の季節を迎えていた。神田駿河台のキャンパスに足を向けても、入学式は行われず、授業も休講続き。私自身、司法試験を目指していたが、学内の受験サークルさえ閉鎖という状態だった。神保町のパチンコ屋「人生劇場」で時間をつぶすか、狭苦しい下宿の部屋で1人机に向かう日々を送っていた。そのため、必然的に下宿仲間とのつきあいが深くなった。当時の下宿は朝夕の賄いつきで、食堂では互いの家庭環境や学業、将来を語り合った。なにしろ、時間はたっぷりある。小さな社会だったかもしれないが、私には自立への大切な季節だったのは間違いない。

下宿は、国鉄(現JR東日本)中央線の三鷹駅近くにあった。そこには他大学の学生も数人暮らしており、静岡県富士宮市出身で亜細亜大学の短期大学部に通っていた苦学生のことが強く記憶に残っている。

私の実家は中小企業を経営し、小学生のころには倒産も経験した。裕福ではなかったが、親から仕送りを受けている身だ。しかし彼は違った。彼は私より4歳年上で、高校卒業後にアルバイトで学費を稼いだという。学費を自分で稼ぎながらの勉学が真摯でないはずがない。その姿が、私にはものすごく新鮮に映った。その生活ぶりからは「ああ、自分のための勉強とはこういうふうにするものだ」ということを学んだ。

そんな彼にも苦手科目があった。試験が近くなると、英語のテキストを手に「ちょっと教えてくれないか……」と、頭を掻きながら私の部屋にやってくる。