議論の“先送り”だらけの取りまとめ案

それは、これまでも指摘してきたように、国会で議論されている案に問題が多すぎるからである。

国会での「立法府の総意」取りまとめ案の作成は、遅れに遅れてきた。それも、衆議院と参議院の議長は与党である自民党の出身でも、副議長は中道改革連合や立憲民主党の出身であり、意見は大きく分かれているからである。

女性宮家の創設と旧宮家からの養子案については合意されたようだが、女性皇族と結婚する配偶者と子どもを皇族とするかどうかは、先送りされる見通しである。

養子案については、本人の意思が確認できるように「15歳以上」となったようだが、養親の範囲や養子本人に皇位継承資格を与えるかについては、慎重な制度設計を求めるというレベルに留まる可能性がある。

特に、この養子案には問題が多い。対象を旧宮家の人間に絞ることは、憲法が禁じる身分差別に結びつく。男子だけだというのも、女性差別にほかならない。

それに、いったん皇室から離れた人間が復帰するのは、異例のことなのである。

保守派が絶対触れない史実のタブー

早慶戦の天覧試合が実現した31日朝のNHK「日曜討論」では、保守派の百地あきら氏が、皇族の生まれでない人間が復帰し、天皇になった例として平安時代の醍醐だいご天皇を挙げた。先例がある、というわけである。

第60代醍醐天皇像(部分)
第60代醍醐天皇像(部分)〔写真=『天皇一二四代』別冊太陽 平凡社/PD-Art (PD-old-70)/Wikimedia Commons

醍醐天皇は、父親の宇多うだ天皇が臣籍降下していたため、生まれたときはたしかに皇族ではなかった。けれども、その期間はわずか2年ほどしかなかった。養子の候補とされている旧宮家の人間が、戦後、臣籍降下した人間の孫や曾孫になるのとはまったく性格が違う。

それに関連して、保守派が絶対に言及しないことがある。

現在の皇室典範は一般の法律だが、明治時代の1889(明治22)年に最初に定められたときには、天皇家の「家憲」という位置づけだった。

その後、皇室典範は一度も改正されなかったのだが、状勢の変化に対応するため、1907(明治40)年に「増補」されている。

増補された部分は全体で8条からなっているが、第6条には、「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とある。いったん臣籍降下して皇室を離れた人間は、二度と復帰できないという“禁止”の規定である。

この増補の部分は、戦後、皇室典範が廃止されたときに同時に廃止され、現在の皇室典範には盛り込まれていない。

ではなぜ、そんな増補が行われたのだろうか。