2代目と三島由紀夫の知られざる関係

先にも触れた通り、2代目の舩坂弘は戦争体験者だ。しかも、派兵されれば生きては帰れないと言われたアンガウル島で闘った。終戦間際の1944年、約1200名の日本兵が約2万の米兵を相手に死闘を演じた。日本兵の生還者は約50人と言われている。そのひとりが舩坂弘だ。彼は米兵から、殺しても死なない男、と恐れられていたという。

前列左がご存じ三島由紀夫。その後ろに立っているのが舩坂弘
写真提供=舩坂良雄
前列左がご存じ三島由紀夫。その後ろに立っているのが舩坂弘

「父は、兵士として非常に優秀で、銃剣術の腕前もかなりのものでした。戦争から帰ってきてからは、剣道や居合道に精進しました。私もその血を受けて、若いころから渋谷警察の道場に通っていたのです。その道場に三島(由紀夫)先生もいらっしゃっていた」(舩坂良雄さん)

舩坂弘はある時期から、戦争の悲惨さを後世に残すために、自身の体験を綴りはじめた。その第一作が『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』だ。

『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル島戦記』(光文社NF文庫)
筆者撮影

「父は書き上げた原稿を、道場仲間である三島先生に読んでもらうことにした。当時の三島先生は超売れっ子の小説家ですから、相手にされなくてもともとだと、どこかで思っていたかもしれません。ところが、三島先生はその原稿を高く評価してくださり、単行本化するために尽力してくれた。その上、単行本の序文まで書いてくれたのです」(舩坂良雄さん)

その一部を抜粋する。

お礼の刀が三島事件で介錯に使われた

【(舩坂弘)氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに死亡したのち、三日目に米軍野戦病院で蘇り……】

まさに、凄まじい、のひとことだ。

「父・弘は、序文のお礼に『関孫六』という名刀を三島先生に贈呈しました」(舩坂良雄さん)これが1966年ころだ。その数年後、三島由紀夫は憲法改正、第9条破棄のために自衛隊に決起することを訴え、1970年11月25日に割腹自決をした。享年45歳。その時の介錯人である森田必勝が、三島の首を落とすために使ったのが、舩坂弘が贈呈した関孫六だった。世にいう「三島事件」である。