脳が音を感知する耳のしくみ

石井先生は検査結果の紙を取り出して説明します。

「最初に行った聴力検査は本人に『ボタンをおす』という意思が必要です。でも次に行った検査は『OAEオーエーイー』、日本語でいうと耳音響じおんきょう放射検査と言って、聞こえの状態が正確にわかるものなんです。図を書いて説明しましょうね」

一枚のメモ用紙を取り出すと、石井先生はスラスラと耳の中の絵を描きます。

「耳から入った音(振動)は、外耳、中耳を通って、内耳の『蝸牛かぎゅう』に届きます。カタツムリみたいな形でしょう」

ここが聴覚の本体だと、石井先生がトントンと印をつけます。

「この内耳の蝸牛のなかには木琴のけんばんのような構造をした『基底板』と呼ばれる板状の器官があります。そのけんばんのような板の上に何万もの『耳の毛』が規則正しく並んでいます。正確には『有毛ゆうもう細胞』と言うんですけどね。そしてね、耳から入った音が蝸牛に届くと、基底板が振動し、有毛細胞の毛もゆれる。その振動を脳が感知しやすい電気信号に変えて神経を通して脳へ伝えるのです。同時にその振動は、今度は内耳、中耳、鼓膜を通して外へ出てくるのです。OAEは外へのその振動(音)を測定しています。この検査では、たとえ言葉が出てこない赤ちゃんでも、聞こえの反応を検査できるんですよ。その結果、お子さんはちゃんと反応していました。それは内耳の聴力は全く問題がないということです」

ストレスで起きる「心因性難聴」

石井先生は女の子のお母さんの顔を見つめ、おだやかにたずねました。

「これを心因性しんいんせい難聴と言います。最近、お子さんにとてもストレスがかかる出来事はありませんでしたか」

お母さんは口をぎゅっと一文字に結び、診察室にある窓のほうに目を向けました。窓からは冬木が風にゆれているのが目に入ります。

「来週の中学受験でしょうか」

つぶやくような、小さな声でした。石井先生はうなずきながら、「そうかもしれませんね」と静かに話します。

「受験が終わったら、また聞こえるようになる可能性が高いです。ですがもし回復しなかったら、心をふくめて診察する小児の専門医にしょうかいしますので、すぐに連絡してください」

「はい……。先生、娘はまたふつうに聞こえるようになるんですよね?」

なおも心配そうにお母さんがたずねます。

「ええ、大丈夫。きっと聞こえるようになりますよ」

石井先生の言葉に、女の子のお母さんはなみだ目になりながら立ち上がります。「わかりました。ありがとうございます」とおじぎをし、その部屋を出ていきました。

「あぁ中学受験か……」

そうつぶやきながら石井先生は電子カルテに記入します。