日本一強いと言われた「愛され武将」

「戦上手」として知られる戦国武将に、立花宗茂がいます。筑後の国(今の福岡県)の柳川の城主で、2、3千人規模で戦えば、おそらく日本一強いと言われる人でした。

立花宗茂像
立花宗茂像(画像=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ところが、関ヶ原の戦いで立花宗茂は豊臣秀頼の西軍につき、すべての領地を失ってしまいます。それでもなお立花家の家来たちは主従の関係を重んじて、殿様を食わせるためにあらゆることをしました。

ある者は、今で言うところの日雇い労働をし、計算が得意な者は商人の家で働いて日銭を稼ぐ、ある者は山に入って狩猟をしながら肉や野菜を取ってくる。こうして収入のない殿様を皆で支えて食べさせたという話が残っています。家来から愛されていた傍証といえるかもしれません。最強部隊を誇る武将の中には、こうした人間的な魅力で家来たちを従えていた例があったかもしれない。

そんなふうに立花家の戦いを見てみると、近現代でいうところの将校さん、つまりプロの軍人である家来たちの戦死率がきわめて高いことが分かります。後ろの方にいる農民たちからすれば、自分たちを統率している城主やその家来が自分たちよりも前で戦っている。プロの軍人である家臣団が率先して突撃していくとなれば、その背後に控えている農民たちだっていやいやながらもそれについていかざるを得ない。

こうして士気の高い軍隊が組織されていた。立花家の軍事力が強かった秘訣は、家来たちを無理やり前線に押し出したことでも、強権による怖れで従えたことでもなく、主君の人間性で家来たちを惹きつけていたことではなかったか。そうした仮説を立てることができるくらい、家臣の忠誠心が厚く、結束の固い家の軍事は優れている、と言えそうです。

「最強の武器」は弓矢から鉄砲へ

武士の世の戦いにおいて、武器となるのは刀です。1543年(天文十二年)、ポルトガル船が種子島に漂着し日本に鉄砲が伝わります。

鉄砲伝来までは、弓矢で射殺すことが相手を100%確実に殺す方法でした。しかも遠くから攻撃できるから、ほとんど危険が自分に及ぶこともなく相手を殺せる効果的なやり方だった。返り血を浴びず、刀を使ったときほどの力技も罪悪感もなく人を殺せる。弓矢こそ殺戮兵器の王道でした。

その延長線上に鉄砲が登場しました。一瞬で相手を撃ち殺せるから、これまでよりはるかに短時間で大勢を殺すことが容易になりました。これが日本人の死生観というものを大きく変えてしまった可能性があります。