「死にたくない」という本能的な恐怖

首二つ取っている、つまり二人の武士を殺している人はほとんどいなかったということが分かります。つまり、この頃ですら「一人殺すのも大変なことだった」。それが戦いのリアルだということになります。人の命を奪うのはもちろん、自分の命を奪われるのはイヤだ。痛い思いをするのもイヤだ。

そういう自分自身の体にもとづく感覚(身体性)は、人間にとって普遍的なものじゃないのかなと思います。そこから発想してみると、一体どういう状況になれば人間は「自分の命を差し出そう」と思うのでしょうか? まさに強い軍隊というのは、兵隊が命を投げ出しても構わないと思えるような環境の整った軍隊なのでしょう。それが次の問題です。

ときは、平安後期から鎌倉はじめにかけてのことです。

このころ武士の戦いはプロの戦士の「一騎討ち」でした。まさに自分と相手が一対一でぶつかりあう肉弾戦です。現代のほとんどの人は一部のマニアの人以外、真剣なんて見たこともないでしょう。先ほどもお話ししたとおり、時代劇の斬り合いはフィクションです。あれを見て、昔は日本も斬り合いが普通だったなんて思ったら大間違い。人を殺す、あるいは自分が死ぬという一対一の戦いは、我々の想像をはるかに超えるしんどいことでした。

だから一騎討ちという、まさに自分の体を使って相手を殺すのは相当難しいことなのですが、鎌倉時代初期の武士はそれを実際にやったわけですね。

自分の「お家」のために命懸けで戦った

そのときになぜそんなことができたのか。逆に言うと、なぜ自分の命を捨てることができたのかというと、武士の場合、自分が戦場で主人のために命をかければ「奉公を果たした」として、主人は自分の家族に土地(御恩)を与えてくれる(このあたりについては本書の第4章でお話しします)。

殿様と家来(主従)というのはこの契約関係で結ばれているからこそ、自分が命を捨てることによって、自分の家族に土地が与えられる。自分は死ぬけれど、自分の家族は生き残って繁栄できる。当時の重要な単位は「家」になりますから、例えば、「本郷家」が栄えることを目的に、自分(本郷和人)は苛烈に戦う、という構図になります(現在の価値観からすると、なかなかそこまでできる人は少ないような気はします)。

勇敢な軍隊を作るためにはどうしたらいいのか。それを科学的に分析すればするほど、「殿のために」という忠誠心の裏側には、「自分のおいえ繁栄のために」という功利計算があり、実は、ロマンとは程遠いものになっていることが分かります。

ところが、意外にもロマンを彷彿とさせる希有な例もあるんです。