まだ生後数カ月の秀頼の婚約を取り決め

おそらく関白秀次は、我が子に政権を譲りたいという秀吉の気持ちをありありと感じとったことだろう。この前後からしばしば体調を崩すようになり、10月からは2カ月にわたって熱海へ湯治に出向いてしまう。この間、秀吉は秀次にかわって再び政務を統括するようになった。

秀次が熱海から京都に戻ると、秀吉はまだ秀頼が生まれて数カ月しか経っていないのに、秀次の娘と秀頼の婚約を取り決めた。ただ、この頃になると、秀吉と秀次の関係は緊張状態に入ったようだ。たとえば、秀吉が秀次の領国である尾張の検地を勝手におこなうなど、その支配に干渉し、統治の不手際を糺ただすこともあった。

豊臣秀頼像
豊臣秀頼像(画像=養源院/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉は秀次に関白職に加えて邸宅の聚楽第も譲り、自身は新たに隠居所として京都近郊に造った伏見城へ移っていた。この地は指月岡しげつのおかと呼ばれ、古代から宇治川沿いの月見の名所だった。