※本稿は、水田孝信『高速取引』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
なぜお金でモノが買えるのか
お金の歴史をひもとくと、1971年に米国がドルと金の兌換を停止するまで、お金とモノは完全に分離したものではありませんでした。このときまで米国が行っていた金本位制は、ドルと金を交換することができるわけですから、お金は金というモノの交換券や預かり証だとも考えられ、ある意味モノとも言えます。
お金とモノが完全に分離したのはごく最近であり、時代を遡れば遡るほど、その区別はあいまいなものとなります。
古代では多くの場合、お金を作ろうと思って作ったわけではありませんでした。モノを交換するうちに、欲しいモノを手に入れるためには誰もが欲しがるモノを交換用に持っていた方が便利だと気付き、それがそのままお金になる場合が多かったのです。
つまり、自分にとっては特に必要があるわけではないが、多くの人が欲しがりそうなモノを交換用に蓄えておくのです。それをみんなが便利だと思い始めるとそのモノはお金として流通し始めます。
古代では先に紹介した石貨の他にも貝殻や木の実、稲束、手斧などもお金として使われました。つまり、お金とは自然発生的なのです。そして、多くの人が便利だと思ったモノがお金になるのです。例えば、第二次世界大戦中のドイツにあった捕虜収容所に囚われたイギリス人のRichard A. Radfordによれば、収容所内では葉巻がお金として機能していたそうです。
お金そのものには価値はない
収容所には食料、煙草、衣服といったものが赤十字から配給されていましたが、これらを囚われていた人たちの間で物々交換するうちに、葉巻が交換時に渡すモノとして便利だとみんなが感じ、お金のようになっていったようです。
現代のお金には、金本位制の時代のようなモノとしての裏付けは全くありません。お金とは交換用に用意されたものでしかなく、それそのものには価値はないのです。他の人がお金を使った交換に応じてくれる、それだけがお金の価値なのです。
お金(貨幣)の研究の世界第一人者である岩井克人東京大学名誉教授は、
「『貨幣とはだれもが貨幣として受け取るからだれにとっても貨幣なのである』ということになります。さらに、この文章を受け身に直すと、『貨幣とは貨幣として受け取られるから貨幣なのである』ということです。
思い切って縮めてしまうと、以下になります。
『貨幣とは貨幣であるから貨幣である。』これは、『自己循環論法』です。」
と述べています(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』(東洋経済新報社))。
まさにお金は交換のための道具であり、交換に使えるからこそ価値があり、交換に使えないと思われれば無価値となるのです。


