残忍な「殺人事件」取材記事で人気を呼ぶ

八雲はこの都会まちを「獣のごときシンシナティ」あるいは「実利一辺倒の豚肉詰めのシンシナティ」(『アメリカ雑録』)と悪態をつきながらも、薄汚く悪臭の漂うこの都会でみずからの活路を見つけようとあがいていました。

池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書)
池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書)

アメリカに着いてから5年後の1874年に、転機が訪れました。八雲24歳の時でした。詩人テニスンの「王の牧歌」について書いた八雲の持ち込み原稿が、「シンシナティ・インクワイヤラー」紙の主筆ジョン・A・コカリルの目に止まり、同紙の定期的な寄稿者となることができたのです。

しかし八雲が事件記者としての評判を勝ち取ったのは、なんといっても1874年11月9日に「インクワイヤラー」紙に掲載された「皮革製作所殺人事件」という犯罪記事でした。この記事は、フライベルグ皮革製作工場で皮なめし職人のハーマン・シリングが、エグナー父子と同僚のジョージ・ルーファーの3人に暴行を受けたうえ、六ツ叉むつまたのフォークで突き刺され、工場の炉のなかに押し込められたまま、焼き殺されるというきわめて残虐な殺人事件を扱ったものでした。文面があまりに生々しくグロテスクなので、一読すると辟易へきえきしてしまいますが、その記事のさわりの部分を引用してみましょう。