士族が次々に参入した「公債織」ブームの実態

こうした士族の参画する織物業は、金禄公債にちなんで「公債織」と呼ばれた。当時の松江の状況を記した資料はないが、「公債織」に士族が参入したことは各地の資料に記録されている。例えば山形県旧米沢藩での状況はこうだ。

金禄公債証書の見本(出典=国立国会デジタルアーカイブ

明治9年8月金禄公債証書発行条例により米沢藩士族全部に金禄公債が下付されるや一時に糊口の途を建たれた藩士六千余はこれを資本としてその大藩が陸続(注:次々との意)と機業家に転向、当時流行の節糸織の製造に従事したのである。これが所謂公債機である。(「米沢機業の沿革と機業合同」『人絹』5(9)(57)日本人造絹織物工業組合連合会 1941年9月)