士族が次々に参入した「公債織」ブームの実態

こうした士族の参画する織物業は、金禄公債にちなんで「公債織」と呼ばれた。当時の松江の状況を記した資料はないが、「公債織」に士族が参入したことは各地の資料に記録されている。例えば山形県旧米沢藩での状況はこうだ。

金禄公債証書の見本(出典=国立国会デジタルアーカイブ)

明治9年8月金禄公債証書発行条例により米沢藩士族全部に金禄公債が下付されるや一時に糊口の途を建たれた藩士六千余はこれを資本としてその大藩が陸続(注:次々との意)と機業家に転向、当時流行の節糸織の製造に従事したのである。これが所謂公債機である。(「米沢機業の沿革と機業合同」『人絹』5(9)(57)日本人造絹織物工業組合連合会 1941年9月)

こうして、当時の日本の主要産業として右肩上がりだった織物業をさらに拡大したのが明治10年の西南戦争であった。

明治10年代の経済は、前半がインフレーション(物価上昇)、後半がデフレーション(物価下落)という、まったく正反対の局面を経験した時代である。新政府は、まだ安定した税収や財政基盤を持っておらず、次々に発生する問題に対応するため、金や銀に交換できない「不換紙幣」を大量に発行して資金をまかなった。

由利公正が「明治政府は紙切れをもって天下を取った」と語ったほど、国家の運営は紙幣発行に頼っていたのである。本来であれば、一定の時期が来れば金貨や銀貨と交換できる兌換紙幣に切り替える予定だったが、その見通しは実現せず、紙幣は信用の裏付けを持たないまま流通し続けた。

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戦争景気がもたらした一時の繁栄

特に西南戦争では莫大な軍費が必要となり、政府はさらに紙幣を増発せざるを得なかった。戦争前にはおよそ1億600万円だった紙幣流通量が、わずか3年後の明治13年には1億7000万円へと約7割も増加している。そのうち4200万円が西南戦争の戦費に充てられたという。

この支出は生産を伴わない「戦場に投げ捨てた金」であり、紙幣の信用を一気に弱めることになった。

当時の大蔵大臣・曾根氏が「ただカミの力によるのみ」と語ったように、紙幣は価値の裏付けがない"紙切れ"にすぎなかったが、人々はそれを通貨として受け取るしかなかった。しかし、紙幣が増えすぎれば当然価値は下がり、物価は上がる。結果、米価は明治6年の一石4円80銭から、明治13~14年にはその2倍以上に跳ね上がった。(鶴ケ島町史編さん室編『鶴ケ島町史 通史編』1987年)

前述の「米沢機業の沿革と機業合同」にも、こう記されている。

翌10年西南戦争勃発するや政府は軍事調達のため予備紙幣を増発したため、インフレーションの出現となり、物価は騰貴し需要激増、米沢の機業も未曾有の好況を示し、1カ年の産額は百万円を突破し、公債機は全盛を見た。

実に、多くの士族は公債機に手を出した直後の戦争景気によって、一気に羽振りがよくなった。しかし、それは長くは続かなかった。