防空壕で暮らした戦時下の三笠宮家
その際、百合子妃は、その激論を防空壕のなかから見ていた。防空壕は、本来、空襲警報が鳴ったときに避難するものだが、その時、三笠宮夫妻は娘とともに防空壕に住んでいた。5月の空襲で邸宅が焼けてしまったからである。
その防空壕は非衛生的で、湿度が高く、空気も悪いので、一日中外にいたという。雨が降ると悲惨で、防空壕の前に柱を立ててトタン屋根をのせていたが、それは雨漏りしていた。
皇族であれば、たとえ戦時中や戦後の苦しい時期であっても、それなりの生活が送れたのではないかと想像してしまうが、むしろ疎開もせず、東京に留まらなければならなかったため、そうした生活を強いられた。食糧事情も悪く、立場上、配給に頼るしかなかった。しかも、百合子妃のお腹のなかには長男がいたのである。
三笠宮は、戦後、学者の道を歩むようになり、そのために東京大学文学部の研究生となり、私も学んだ宗教学科の授業を受けている。三笠宮がヘブライ語の授業を受けた大畠清先生は、私の大先輩にもあたるわけだが、その葬儀には三笠宮も参列していた。
それが私が三笠宮の姿を見た唯一の機会だが、東京女子大学で非常勤講師として教えたことでは、私も同じである。あるいは、三笠宮と私は同じ教室で講義を行ったのかもしれない。私にとっても、『三笠宮崇仁親王』という書物は、忘れ難いものとなったのである。