「リベラルズ」から新進党、自民党へ
その翌年の衆院選では、旧奈良1区から無所属で立候補してトップ当選を果たした。細川政権の下で、柿沢弘治らと政策集団「リベラルズ」を結成し、その流れで新進党に合流。1996年の衆院選では奈良1区から新進党公認で立候補し、当選した。
そののち自民党に転じたが、2003年の衆院選奈良1区では落選。2005年衆院選では、郵政法案に反対した滝実への刺客候補として奈良2区に回り、当選した。
こうしためまぐるしい選挙区事情に翻弄されつつも、自民党では貴重な女性議員として、小渕内閣で通商産業政務次官となった。また、森首相の下では、山本一太、下村博文とともに「勝手補佐官」を名乗り、討論番組などで不人気な森首相を擁護した。
高市氏は関西人らしく、ストレートに本音を表現するトークがウリだ。ところが、それが近隣国との関係で炸裂して物議を醸したことがある。
戦争責任をめぐり「タカ派」のレッテル
1995年3月16日の衆院外務委員会で、かっての戦争の謝罪問題に言及し、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と啖呵を切ったのである。
中韓などが謝罪要求をどんどんエスカレートしてくる中で、いつまで言われなければならないのか、というのは国民も感じていたので、共感する人も多かった。しかし、乱暴すぎると感じた人も多く、田原総一朗氏から「あなたのような下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」と罵倒されたこともあった。
また、高市もだんだんエスカレートして、先の戦争について、「自衛のための戦争だった」「セキュリティーの戦争だった」と肯定的な見解を述べることも多くなり、タカ派政治家というレッテルを貼られることになった。
しかし、自民党では女性議員が少なく、とくに衆議院では顕著だったので、2006年には、第一次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画等担当)となった。
民主党政権時代は、松下政経塾のOBが要職を占める中で、手の内を熟知した高市の舌鋒鋭い批判は珍重された。それが評価されて、2012年の第二次安倍内閣時には、女性として史上初めて党三役のひとつである政調会長を務め、2014年には女性初の総務相となって放送法問題などで辣腕を振るった。