禎子内親王の結婚相手

しかし話はそう簡単には進まなかった。禎子内親王と釣り合う皇子たち、敦成親王(後一条天皇)には藤原威子、敦良親王(後朱雀天皇)には藤原嬉子と、年上の叔母である道長の娘たちの入内が優先したからである。

つまり当初の計画では、禎子が結婚するのは、後一条に生まれるであろう第一皇子、最も正当な後継者だったのではないか。しかし結局威子は後一条の皇子を産んでいない、一方、嬉子は万寿2年(1025)に男子を出産するものの、その直後に亡くなっている。道長の計画は崩れはじめたのである。

この段階で天皇候補になる皇子はこの男子、親仁(のちの後冷泉天皇)だけだった。彼と禎子の年の差は12歳、藤原威子と後一条の9歳差でも珍しいといわれたから、まず結婚対象とは見られなかった可能性が高い。

つまり彼女には釣り合う結婚相手が見つからなかった。この時期の道長は、自分の健康状態がかなり危なくなっていたのは知っていただろう。しかし後一条に入内させて禎子を威子と張り合わせるわけにはいかない。

その結果としての選択肢が、正妻の嬉子を失った東宮敦良親王との結婚だったと考えられる。

後朱雀天皇の肖像画(画=三宅幸太郎/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

道長死後の財産の分配先

二人の結婚は万寿四年で、道長の亡くなる8カ月前のことである。ならば道長は自分の死後のことも考えて事を進めたと思われる。

榎村寛之『女たちの平安後期』(中公新書)

というより、禎子を育て、バックアップしていた祖母の源倫子と伯母の太皇太后彰子の理解と協力がなければこの結婚はおこなえなかっただろう。

道長死後の財産は、倫子の他には彰子、威子とともに禎子内親王にも分配されている。この中に道長の「次妻」とされた源明子の子、藤原尊子(源師房の妻)や、その姉の故藤原寛子と小一条院敦明親王との間に生まれた儇子内親王が入っていないことから見て、禎子が道長の孫という以上に、源倫子グループの主要メンバーと目されていたのは間違いない。

このように、禎子内親王の結婚は、80年近く分かれていた冷泉系と円融系の天皇家の合一を意識したものだったと考えられる。そして後朱雀天皇の即位までには、良子内親王、娟子内親王、尊仁親王(後三条天皇)の子供に恵まれる。両系統と道長の血を引く皇族は着実に生まれつつあった。

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