寄り添ってくれる人がいないと「生活の質」や「死の質」が下がる
医療や介護が必要になったとき、重大な意思決定が求められるとき、亡くなるとき、そして亡くなったあとに生じるさまざまな問題を解決するには、高齢者を支援したり、ときには代わりに問題を解決したりする人の存在が不可欠です。
そのような存在がいないと、高齢者の“生活の質”や“死の質”を保つことは非常に難しくなります。
しかし、そのような伴走的な支援を当然のように提供してくれる人を見つけることは、今や誰にとっても簡単ではありません。
平均寿命の延伸により「老後」が長くなるなか、配偶者や子が先立つケースもめずらしくなく、「必ず支えてくれる誰か」を確保するのは容易ではないのです。
また、離婚や未婚が増え、既婚であっても子どもをもたないケースもあるなど、家族構成の多様化もこの問題を複雑にする要因の一つといえます。
ライフスタイルの多様化により、家族や地域のしがらみにとらわれることなく、人生の選択肢を自由に選べるようになったことが、個人の幸福追求につながっていることは確かでしょう。
自分らしい生き方を選択できることは、とても価値のあることです。しかし、それは同時に、助けが必要なときに頼る人がいない状態に陥るリスクとも、表裏一体なのです。
現代は「ピンピンコロリ」でもう死ねない
「最後までひとりで問題なく暮らしたい」というのは多くの人の願いでしょう。しかし、実際にはどこかで必ず何らかの問題が生じるものです。
高齢者の間では、「ピンピンコロリ」という言葉がよく使われます。もともとは寝たきりにならないよう運動を推進するために使われるようになった言葉なのですが、私は「ピンピンコロリは思考停止ワード」だと思っています。
「自分はピンピンコロリで逝きたい、死んだらそのあたりに骨をまいてくれたらいい」と潔さを強調する人もいます。ですが、「ピンピンコロリ」は選ぶことができないのです。まして医療の発達した今の時代では、そう簡単に死ぬことはできません。
だからこそ、「ピンピンコロリ」の話には意味がありません。大切なのは「ピンピン」の部分、つまり「健康に過ごすこと」であり、「コロリ」の部分はまったく期待できないということを直視しなくてはなりません。
では「コロリとは逝けない」とすると、具体的にどのようなことが起きうるでしょうか。
身寄りのない高齢者が自分の状況の危うさに気づくのは、多くの場合、転倒して骨折したり、病気で倒れて病院に搬送されたりしたときです。
普段は特に問題なく暮らしていても、こうした緊急事態に直面したとき、初めて「誰もサポートしてくれる人がいない」「もう、ひとりではやっていけない」という現実を突きつけられるのです。