トラウマは連鎖する

飲酒して転び、頭を強打した父親は、そのまま認知症を発症。母親が在宅で介護していたが、誤嚥性肺炎を起こし、病院で亡くなった。63歳だった。

父親の育った家庭は、「あまり愛情を感じられない家庭」だったという。

父親には7歳上に兄がおり、成績優秀。父親も負けていなかったが、猛勉強の末に兄が通った大学に落ちて、東北大学に進んでいる。兄弟仲はとても悪く、両親からもらった土地にそれぞれ家を建てたが、隣同士にもかかわらず、兄弟の付き合いは全くなかった。

学歴至上主義家庭で育ったという井上さんの父親は、自分も学歴至上主義となる以外、子どもへの接し方がわからなかったのだろう。東北大学から一流企業に入社した父親は、自分の人生が“成功”であり、自分は“勝者”だと思いたかった。その裏には兄に負けた現実への「コンプレックス」があったのかもしれない。だから執拗に「俺はすごい」「俺の言うことが正しい」と言って、自分より力のない妻や子どもたちを力でねじ伏せてきたのではないか。

「祖父母によると、父には反抗期がなかったそうです。父の心の中にはずっと、面と向かって言えなかった両親への怒りがあったのでしょう。そして自分では認めたくない弱く情けない自分を、目の前の母に投影していたのだと思います。父にとっての母は、両親に対する怒りを出せる唯一の存在だったのかもしれません」

小さい頃から自身の感情を抑圧し続けた母

一方、母親の育った家庭は、「“母親”の存在感がない家庭」だったようだ。

母方の祖父は、外向きには明るい性格で人付き合いが活発な人だったが、身内には厳しかった。母方の祖母は、祖父のモラハラが原因で躁うつ病を患い、躁の時は明け方まで1人で騒ぎ、うつの時は夜でも暗い部屋で置物のように佇んでいた。

病気のせいで家事があまりできない祖母のため、母親は小さい頃から3歳上の姉と共に、家の手伝いをしていた。井上さんが母親から直接聞いた話によると、幼い頃母親は、「態度が気に入らない」という理由で怒った祖母から手にアイロンを当てられたことがあるという。

“母親”不在の家庭で育った母親は、自分を支配する夫の元で、コントロールされて結婚生活を送る。アイロンで自分の子どもの手を焼くような親に育てられた母親は、元々“何をするかわからない相手”と暮らすことには慣れている。自身の感情を抑圧し、そのことに気付かないようにしているうちに鈍麻し、「自分が本当はどうしたいのか」がわからなくなり、「自分の人生を生きること」ができなくなっていたのかもしれない。

井上さんはこれまで何度も、母親を助けられない自分を責めていたが、無理もないように思う。物心ついてから成人するまで父親が母親を罵倒する姿を見てきて、母親は一度も父親に逆らったことがないのだ。住宅ローンのことで父親と井上さんの妻が口論になった時は、咄嗟に妻と孫を庇ったが、それは井上さんの成人後だ。子どもにとって、自分を守ってくれるはずの母親が自分を守ってくれず、父親に虐められている様子を見せられ続けていれば、「自分が敵うはずがない」と思ってしまうのも仕方がないだろう。

父親は母親といることで自尊心を保つことができ、母親は経済的に父親に頼らざるを得ない。両親は共依存関係に陥っていた。そして井上さんも、「父に認められたい」という依存をし続けていたのだった。

パラダイムシフト

父親に囚われて生きていた頃の井上さんは、飲酒に逃げ、妻と激しい夫婦喧嘩を繰り返していた。それはまさに、父親と同じだった。

井上さんは、父親を反面教師にした「家族は仲良く、温かい関係でいるべき」「良い夫、良い父親でなければならない」という強い思いと、「男はしっかりと稼ぎ、家族を養うべき」という父親に叩き込まれた教えに縛られ、苦悩していた。

「自分が気づいていないものも含めて、強い思い込みは時に大きな足枷になります。足枷を解くには、まずは自分の思い込みを認め、『自分にはこんな思い込みがあったんだ』と客観視すること。その上で実践するといいと思っているのは、思い込んでいたことと真逆の言葉を口に出して繰り返し言ってみることです」

井上さんは、

「家族は仲良く、温かい関係でいなくていい」「良い夫、良い父親でなくてもいい」「男はしっかりと稼ぎ、家族を養わなくてもいい」

と繰り返し言うように習慣づけた。これにより井上さんは、夫婦喧嘩も飲酒の量も減っていった。結局自分を苦しめていたのは、他でもない、自分自身だったのだ。