近くのものよりも目的地を見る
さらに、女性が目の前で起きていることに動揺している時「こうすればいいじゃないか、そんなことは何も問題ではないよ」と結論を先に言って女性との会話が噛み合わなくなるのも、近くのものよりも目的地を見るべしとされている車の運転と似ていると思いました。
目の前で何か起きていても、自分が必要なさそうだったら「大丈夫」と判断する。彼らに悪気があるわけではないけど、目の前の出来事の解像度が高い人からすると冷たい対応だと感じてしまうこともあります。ただ彼らには、危険を察知し自分がやるしかないと判断したら、全力で動き出してくれる特徴もあります。ただ、よっぽどじゃないと「無」で見ていることも多い。
女という性を45年間生きてきて、初めて車という、自分自身が危険な存在になる乗り物を運転して、初めてその感覚が分かったような気がしました。
女がかいがいしく動き回る時に、表情すら変えない彼ら。けれども、もしかして彼らにとってはそれが「動き回る」と同じくらいの働きであったのかもしれない、と思ったのです。
彼らが愚鈍なわけではなかったのだ――。
怖がられ疑われる性、危険な目に遭いやすい性
若い頃「職質にあった」と愚痴を漏らす男友達や男性の知人が何人もいました。だけど女性で「職質にあった」という話はほぼ聞いたことがありません。性暴力・性犯罪においては事実として男性が女性に加害するケースが圧倒的に多いのもあって、社会的に、男性は怖がられ疑われる性であり、女性は危険な目に遭いやすい性、というジェンダーロールがあります。
私は中高生の頃、「お前は被害に遭う側だから気をつけろ」という大人たちの予告通り、帰路を歩いているだけで見知らぬ男に駅からつけられ「家まで送るよ」と紳士みたいな口調で話しかけられ恐怖したり(本人はおそらく脳内で私とすでに付き合っている)、電車では脈略なく体を触られたりする痴漢被害に毎日のように遭い、原付に乗った男にすれ違いざまに胸を触られたり(性犯罪であり交通違反)、とにかくあらゆる形式で性的被害に遭いました。
どの野郎も必ず、ヒョコッといきなり現れます。それまでは隠れて近づいてきて、突然目の前に出て私の行く道をふさいだり、脈略なく体に手を伸ばしてきたりするのです。そういうやつらにひどい目に遭わされないよう、自衛しなきゃなんないのです。目的地よりも、目の前の曲がり角や、暗がりや後ろを気にして行動しなきゃいけない。常に目の前に気を配らないといけなかった。
そういった歩き方が子どもの頃から身に染み付いていたので、子ども乗せ電動自転車に乗っている時も、教習所で車の運転を始めた時も、その自衛の感覚が当たり前だったのです。