大内定綱は政宗の大軍を前にして小手森城から逃げ出す
閏8月12日、伊達政宗は米沢城を発った。
その12日後の24日には大内居城より北東12キロメートルほどの小手森城に差し迫った。
小手森城は大内定綱その人と大内家臣・小野主水らが守っていた。定綱は政宗の迎撃を試みたが、大軍を前に歯が立たず籠城以外の手がないと覚悟を決めた。
その夜、定綱は小手森から脱出して、本拠地の小浜城に移った。残された将兵は、主君定綱が蘆名・佐竹の援軍を連れて助けに来てくれることを願って徹底抗戦の構えを見せた。
獲物を逃した政宗は猛攻を重ねて3日後の27日に小手森城を陥落させた。
ここで悲劇が起きてしまう。
政宗が小手森城で、城に籠った男女を無差別に大量虐殺したというのだ。
その内容は、落城当日に叔父に、翌日に家臣に、翌月に地元の僧侶に宛てた書状に具体的内容が記されている。世に言う「小手森城の撫で斬り」である。
現在、NHKBSで再放送中の大河ドラマ『独眼竜政宗』(渡辺謙主演)でも第11話「八百人斬り」で描かれた有名なエピソードだ。
「小手森城の撫で斬り」について政宗が残した3つの記録
合計3通の書状から、該当部分を引用してみよう。
まず事件当日、政宗本人が伯父の最上義光に宛てて書き送った書状である。
城内にいた大内家臣(武士)と奉公人(一般人である従者とその家族)のほか、動物まで殺害させたというのである。無差別殺人である。
もう1通は、翌日、伊達家臣・後藤信康に宛てて書き送った書状で、
と、その殺戮を誇らしげに伝えている。
最後にもう1通。事件翌月、政宗は僧侶の虎哉にも手紙を書き送った。
そこで政宗は
と伝えている。
すべて一次史料(当時の記録)に書かれており、しかも政宗本人の証言であるため、信頼度は高いと見られている。
だが、どの手紙も人数が違っていて、微妙に文意が異なるのは不可解である。
例えば、有名な「犬までも撫で斬り」という内容は、最初の最上義光宛書状にしか書かれていない。
この点を、政宗の激烈さを示す感情的な情報認識の齟齬と解釈するよりも、別の史料と見比べてみよう。