大切なのは「取材対象からの独立」

この本は明言する。「不偏不党や中立性はジャーナリズムの根本原則ではない。(略)客観性とは中立性や、両サイドが同じになるようバランスを取ることではなく」(254ページ)、大切なのは中立ではなく独立、とくに取材対象からの独立、力ある者からの独立だという。

「ジャーナリストが重点を置き続けなければならないのは、魂と心のこの独立性であり、中立性でなく知の独立性である」(258ページ)

この独立性に疑問を投げかける米国の深刻な事例が第5章で出てくる。記者が政治家から相談を受け助言をするというケースで、重要人物に頼られたと思って記者が舞い上がり、取り込まれてしまう落とし穴だ。

日本でも2000年、首相だった森喜朗が「日本は神の国」という問題発言をした後、その釈明記者会見をどう乗り切るかを当の記者が指南したメモが見つかった「指南書事件」を思い起こさせる。

内閣記者会(記者クラブ)が舞台だったため「記者クラブの問題」と捉えたい面もあるが、この本の挙げた米国の諸事例も考えればおそらくはそこにとどまらず、より深刻に取材全般を広く覆う独立性の危機、取材対象に無分別に寄り添ってしまう危険と考えるべきであろう。

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ジャーナリズムの最大の目的とは

ジャーナリストは独立であること。それを意識し守るべきであり、中立かどうかではない。中立に拘泥すれば「男女が平等であるべきか不平等でいいかにつき、中立の立場で報道」などという物言いに居場所を与えかねない。それは無責任だ。

誰に対して無責任か。読者・視聴者つまり主権者である市民に対してだ。

「ジャーナリズムの最大の目的は、市民が自由であり自治ができるよう、必要な情報を提供することである」(42ページ)

著者たちのこの宣言こそ、ジャーナリズムの原点である。この本で「市民」という語はある市の住民という意味ではなく、主権者であり統治の主体、民主主義の運営者を意味する。

だからこの本が掲げるジャーナリズム10の掟では、一番手が「真実」であることは当然として、すぐ次の二番手に「ジャーナリズムの第一の忠誠は、市民に対するものである」が来る。民主主義の運営者である市民が社会について豊かな知識を得ることこそ、民主主義のエネルギー源だからだ。

この本がジャーナリズムの役割として「コミュニティを作る」ことを繰り返し強調するのもまた、それが民主主義の基盤にほかならないからだ。この民主主義への貢献がニュースの存在意義である。