彼らについては「エリート大学生があのような幼稚ないじめをするはずがない」といった反応がSNS上などでは見えたが、とんでもない、現代のほかならぬSNSには、エリート男性によるあのような女性差別が跋扈している。そのような男性たちには、観ない、という以外に、このドラマにどのような反応を期待すればいいだろうか。

そこまでの極端に走らないとすれば、第29話で寅子が高等試験に合格する一方で不合格となり、法曹の道を諦める決断をした書生の佐田優三についてはどうだろうか。

彼は両親を亡くして天涯孤独の身である。必死で勉強してきたものの、緊張でお腹を壊しがちであるためにこれまで報われてこなかった。それが、寅子の変顔のおかげで緊張せずに済み、それゆえに自分の実力が及んでいないことを実感するという皮肉な結果になる。ある種の弱者男性である彼にはこの後、どのような物語が用意されているのだろうか。

しかしこのドラマは本当に周到と言うべきか、それにもきちんと配慮をしていると読むことができる。高等試験に合格した寅子の顔は晴れない。なぜなら、彼女が試験という競争に勝利した陰には、第30話での寅子の感動的なスピーチから引用するなら、「志半ばであきらめた友、そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方がいること」を、彼女はよく分かっているからだ。この「友」には、文脈上、佐田も入っている。

このドラマは、フェミニズム的な物語であると同時に、選択が可能な恵まれた女性たちの物語(これを専門的にはポストフェミニズム的な物語と呼ぶが)に落ち込む可能性も秘めていて、そのようなポストフェミニズム的物語につきものなのは、活躍する女性の陰に、自らの境遇を女性のせいにして恨みを募らせる男性像である。だが上記の寅子のみごとなスピーチは、それさえも乗り越えてみせた。感服である。

急増する「助力者になる男性」という構図の罠

それにしても、男性たちが寅子のよき助力者になることには、もうひとつの落とし穴がある。つまり、一言で言えば温情的な父権主義とでもいえるものである。

拙著(『新しい声を聞くぼくたち』)で論じたが、近年の女性が活躍する(ポストフェミニズム的な)物語には「助力者」となる男性キャラクターがつきものになっている。例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でフュリオサたち女性の助力に回ったマックスなど。

これはいっぽうでは平等な社会に向けた新たな男性像として歓迎すべきではある。だが場合によってそれは、根本的なところで男性の権力を(形を変えつつ)保存するための方法にもなり得るのだ。それは、女性のある程度の権利は認めつつ、家父長制の根本は譲らないような温情的な父権主義にもなり得る。

驚くべきことに、『虎に翼』はそのことにも意識的である。第1話から第2話で寅子がお見合いをするアメリカ帰りの男性(最初は理解があるふりをしながら、寅子が本当に社会問題を論じ始めると「女のくせに生意気な」とキレる)はまさにその浅い類の事例だ。