何人もの女性と浮名を流した放埓な男性

宣孝も生年は明確ではないのだが、寛和元年(985)には30歳をすぎていたのだから、この求婚時には40代も半ば近かったはずである。むろん、初婚ではない。この時点ですでに3人の女性に子供を産ませており、紫式部と同時に近江の女にも求愛していたという。

堅物の紫式部のイメージと合わないが、事実、そんな男だったのだろう。

倉本一宏氏も次のように記す。「宣孝は有能な官人であり、雅な面も持っていた。『宣孝記』という、公事を丁寧に記録した日記も残している。その一方では、派手で明朗闊達、悪く言えば放埓な性格でもあったようである。派手な服装で金峯山詣を行なったことが、『枕草子』に描かれている」(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。

それにしても、そんな「放埓」な人物がなぜ紫式部に目をつけたのだろうか。関幸彦氏は「多くの研究者が指摘するように、何人かの女性と浮名を流した宣孝も熟年に達するなかで、精神性を加味した大人の女性を必要としたのだろうか」と推測している(『藤原道長と紫式部』朝日新書)。

そして、紫式部は求婚を受け入れた。

ところで、宣孝は京都から求婚したのだが、じつは、紫式部はこのとき、都から遠い北国である越前(福井県)にいた。そのことも、この結婚を解くカギになる。

都人に北陸の気候は堪えた

その2年前の長徳2年(996)秋、父の為時は、花山天皇の出家にともなって官職を失って以後、ほぼ10年ぶりに任官し、越前守として赴任することになったのである。その際、妻をともなわなかったので、当面、父の世話をする必要があったのだろう。紫式部も同道した。

そこに、前年には筑前守(筑前は福岡県北西部)の任期を終えて京都に戻っていた宣孝から、求婚の書状が届いた。それを受け入れた紫式部は、長徳3年(997)の年末か同4年(998)の春に、父を越前に残してひとりで帰京し、同4年の冬に宣孝と結婚した。

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前出の関氏は「都から遠い北国の地にあった式部にとって、宣孝の存在は心理的な“化学反応”をもたらしたようだ」(前掲書)という見方をする。

倉本氏も「紫式部にはその後の一年ほどの越前滞在で、その風物を詠んだ歌はない。国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう。(中略)豊かな大国であるとはいっても、やはり都人には北陸の気候は堪えたのであろう」と指摘する(『紫式部と藤原道長』)。それゆえ、都にいる宣孝の求めに応じる気になったのかもしれない。