キー・ホイ・クァンと目を合わせなかったロバート・ダウニー・Jr.

キー・ホイ・クァンにしてもミシェル・ヨーにしても、栄えある前年受賞者にふさわしい扱いだったようには見えなかった。この出来事に対し、X(旧ツイッター)などで、大きな批判の声が上がった。海外在住者や渡航経験者の間で、自分も同じような扱いを受けた、という投稿が相次いだ。このアカデミー賞授賞式の様子を見て、やっとあの時の自分の経験が何だったかわかった、という声もあった。キーワードは「透明化」。まるでその場にいない人であるかのように無視されることだ。

写真=Imaginechina/時事通信フォト
第7回アジア・フィルム・アワードのミシェル・ヨー、2013年3月18日、香港

私自身、約20年海外に住み、教員として大学で教えたりしてきたが、白人がマジョリティーの国々では、数えきれないほどそうした扱いを受けた。食事や買い物など日常の場面だけでなく、大学内部や学会などでもそうだった。あまりによく起きるので気のせいだとは思えず、何か自分に問題があるのだろうかと思ったほどだ。でも香港や台湾、東南アジアで経験したことはない。明らかに私がアジア人女性であることと関係している。

これは人種差別というほど露骨ではないが、日常生活の行動や表現において、ささいな形で起きるマイクロアグレッション(自覚なき差別)の結果だと言えるだろう。今回のアカデミー賞授賞式で私たちが目にしたのも、それが形を取った出来事のように思える。Xでは問題にしすぎだという声も上がったが、こうした出来事を無視するべきでない理由は2つある。

アジア人の「透明化」は問題視するべきではないのか

1つは、アジア人である私たち自身のためだ。というのは、こうしたマイクロアグレッションを受けると、知らないうちに心理的に大きな負担がかかる。自身もアジア系アメリカ人男性であるデラルド・ウィン・スーは著書『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)で、そう指摘している。

今回多くの人たちがXで声を上げたということは、ささいなことのように見えて、喉に刺さった小骨のように、そうした経験がずっと彼らの心に引っかかっていたことを示している。こうしたことがきっかけで、海外留学や就労、移住、海外とのビジネスや海外旅行を考えていたのに、二の足を踏むようなことになったとしたら、個人的にも大きな損失だ。そんな不利益を、私たちがこうむるゆえんはないからだ。

もう1つは、マジョリティーである白人のためだ。彼らにしても、差別的な振る舞いをしたように見られたくはないはずだ。しかし今回、実際はどうであれ、彼らが多くのアジア人やアジア系の人々に良くない印象を与えてしまったのは確かだ。