「やっぱりこうなったか」とは言いたくなかった

実際、このガイドライン案が発表されたとき、世間やネットではそこまで強い反発はなかった。国がこのようなステートメントを出す前から、市民社会はかねて「ノンアルコール」の機運をじわじわ拡大していて、それがコロナの3年間に大きく加速した。統計的に見ても、アルコール飲料の市場規模は年々縮小しているが、それに反比例するようにノンアルコール飲料の市場規模は拡大している[読売新聞オンライン「ノンアル市場活況…コロナ禍で高まる健康志向、『アルコール離れ』も」(2023年11月15日)]。

このような流れのなかで、国が「アルコールを控えよう、具体的な数値目標は……」と、人びとの規範に踏み込んだガイドラインを出すのは当然のことだったのかもしれない。「やっぱりこうなったか」とは言いたくなかったが、やっぱりこうなってしまった。

写真=iStock.com/kuppa_rock
※写真はイメージです

「ただしい側でいること」の心地よさ

コロナ騒動の数年間は、人びとに「(権威によって認められた)ただしい側でいること」の心地よさや安堵あんど感や所属感や高揚感をたっぷりと味わわせてしまい、一人ひとりの自由にもとづいて「わるい(≒権威が必ずしも推奨していない)けど、個人的にはたのしいもの」を享受することの快感を大きく上回ってしまった。

筋金入りの自由主義者といわれていた言論人や知識人でさえも、2020年以降はあっさりと「権威主義的パターナリズム」に心地よく包摂されてしまったのだから、一般大衆はなおさらだった。県外ナンバーの自動車に嫌がらせをしたり、20時以降も営業を続けている飲食店に嫌がらせの張り紙をしたりといった「自粛警察」が全国で猖獗しょうけつをきわめていたことを皆さんも覚えているだろう。

国や政府だって、自分たちが発信する「パターナリズム」に対する風向きが変わったことに気づかないほど鈍感ではない。こと「公衆衛生」や「健康増進」を建前にしておけば、国民は割合すんなりと自分たちの示す秩序や規範に従ってくれるという成功体験をこの3年間でたくさん積み上げた。そんなかれらが、アフター・コロナの時代に入り、これまで以上に「統制的」な態度を見せるようになったのは偶然ではないだろう。