通説に見る桶狭間前夜、清洲城での軍議では…

桶狭間合戦の前夜、尾張清洲城に、織田信長(1534〜82)がいた。

並み居る家老たちが駿河から攻め込んできた今川義元への対応を語り合っていた。軍議である。

議論はどうやら籠城へと傾きつつあった。

だが信長は、ここで自身の意見を言わず、合戦と関係のない雑談だけをして、立ち去った。

家老たちもあの信長もいよいよ知恵が曇ったようだなと「嘲笑」したという。

だが、時が経つと信長は彼らを捨て置き、わすかばかりの近習を連れて清洲城を飛び出た。

向かう先は、今川義元に攻められている前線の城砦群、すなわち戦場であった。信長の胸中はこの時まだ、誰にも明かされていなかった。

現在もっともよく読まれているであろう『信長公記』首巻の現代語訳(底本は町田本を桑田忠親が翻刻したもの)は、次のように記す(中川太古訳、新人物文庫、初版1992、補正版2006)。

「今川方は十八日夜に大高の城へ兵糧を補給し、織田方の援軍が来ないうちに十九日朝の潮の干満を考えて、わが方の砦を攻撃すること確実との情報を得た」むね、18日夕刻になってから、佐久間盛重・織田秀敏から信長に報告した。

出典=清須市公式サイトなどより編集部作成。すべて「清洲」と表記
イラスト作成=パワポ

信長が家臣たちにも作戦を打ち明けなかったのはなぜか

しかし、その夜の信長と家老衆との談話には、作戦に関する話題は少しも出ず、いろいろ雑多な世間話だけで、「さあ、夜も更けたから帰宅してよいぞ」と退出の許可が出た。家老たちは「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのだ」と、皆で信長を評し、嘲笑しながら帰った。

予想どおり、夜明け方、佐久間盛重・織田秀敏から「すでに鷲津山・丸根山の両砦は今川方の攻撃を受けている」との報告が入った。

この時、信長は「敦盛あつもり」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝ほらがいを吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した。

とても絵になる印象的な情景である。多くの歴史創作物(漫画、小説、ドラマ、ゲーム)がこの内容をほぼ忠実に受け止めている。このあと起きる奇跡的な大勝利を想像すると、劇的で説得力あるシーンに思えよう。

絶望的な状況で、信長は軍議に参加せず、家老たちに嘲笑わらわれながらも、無言で少数行動を企む――その脳裏には一か八か、ただ勝つための秘策があった……。この記述は長らくそう読まれてきて、強い文学性を備える文章とされてきた。

だが、私はこの現代語訳がどこまで妥当であるか考え直す必要があると考えている。限られた情報量のもと、自分たちの思い描きやすい読み方をしている可能性がある恐れがある。