朝ドラの「メンター」としては異質な存在
朝ドラではかつて、『半分、青い。』の豊川悦司や、『とと姉ちゃん』の唐沢寿明、『おかえりモネ』の西島秀俊などがそうであったように、主役クラスの俳優が脇に回ってヒロインをサポートすることは少なくはない。ただ、彼らはあくまでも主人公に寄り添う役割を逸脱することはなく、彼らの個別の問題にドラマが時間を割くことはなかったし、ましてや、彼らが作品のテーマを語ってしまうようなことはなかった。そのなかで『ブギウギ』の羽鳥はちょっと異質である。
スズ子の才能を見出し導いていくという点では、先述のメンターたちと同じ役割ながら、年明けに放送された第65回では「音楽は時世や場所に縛られるなんてばかげている。音楽は自由だ。誰にも奪えないってことを僕たちが証明してみせよう」(脚本:櫻井剛)と熱く語ってしまう。しかもスズ子のいないところで、だ。そのため、ここでも羽鳥善一物語の世界線が分岐しはじめて見えてしまう。わざとやってるだろうと感じる。スピンオフ『羽鳥善一の上海の冒険』みたいなものがあってもいい気がする。
上海の逸話をやや強引に挿入しているように見えることには理由があるのだ。スズ子の人生を激変させる大ヒット曲となる『東京ブギウギ』の誕生の出発点になるので、手厚く描く必要があったと、制作統括の福岡利武チーフプロデューサーは語っている(“羽鳥善一(草彅剛)の上海のエピソードを、今後の『東京ブギウギ』誕生のためにもしっかり描きたいですし” yahooニュースエキスパート12月25日配信記事より)。いや、でも、それだと、やっぱり『東京ブギウギ』を作った羽鳥がドラマの中心になってしまうような気がするが……。
スズ子は目下、恋人・愛助(水上恒司)との愛の日々を最優先していて、そのため歌に身が入っていないように見えるし、楽団は二の次になっているようにも見える。朝ドラの主人公は、こういう欠点や弱点をあえて付与されているのだろうなあという気がして気の毒である。
モデルになった服部とシヅ子の関係
服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』によると、スズ子のモデルの笠置シヅ子は“舞台の華やかさ、力強さに反して、彼女の私生活は別人のようであった”、“質素で、派手なことをきらい、まちがったことが許せない道徳家でもあった”そうだ。そんな人物がひとたびステージに上がると、陽気に元気よく跳ね回る。『ブギウギ』でも、スズ子は羽鳥の音楽によって心を解き放ち、見た観客もまた続く。それが良きところではある。
『ブギウギ』のオープニングで、スズ子らしきキャラクターがあやつり人形をモチーフにして見えるのは示唆的で、福来スズ子は羽鳥善一のあやつり人形だったという解釈もあながち間違いではないのではないか。ただし、そこには悪い意味ではなく、いい意味しかない。
タモリが赤塚不二夫の告別式で述べた「私もあなたの作品のひとつです」という伝説の弔辞にも似て、福来スズ子は、羽鳥善一の作品であり、羽鳥の希求する自由という理想の体現者なのだろう。羽鳥善一は名前のごとく音楽で善行しかしていないからである。と、羽鳥主人公のドラマの妄想の翼がぐんぐん広がってしまうのは、モデルになった服部良一の力もあるが、草彅剛の力にほかならない。