自分が「楽しいか、楽しくないか」で生きる子どもに戻る

「あ~あ、今日も一日、何もなく無事に過ごしました」と感謝して寝るのだと話す高齢男性がいました。宗教心がある方ではなく、「無事でいることが年寄りには冒険なんです」と笑っています。

聞くと、近所の人や友人の多くが家の中や庭などの身近な場所で転んで骨折が原因で入院したそうです。家の中は危険。それを乗り越えながら今日も無事だったと思うそうです。

たしかに高齢になると日々の生活が冒険なのかもしれません。若い人から見たら、動きはスローでたいした仕事をしていないように見えても、一日を乗り越え生活するのは、若い人が考えるより大仕事なのです。

小さな子どもが「ああ、楽しかった」と言う言葉を聞いたことはありませんか。

「楽しかったね。あしたも遊ぼうね」

そんな時代が誰にもありましたが、早い段階から受験勉強をしたり仕事人間となり、心から「楽しいなあ」という気持ちを忘れているときがあります。

値段の高いブランドものを買ったり、素敵なレストランでの食事をSNSでアップしたりして充実した生活をしている人が、本当に「ああ、楽しい」と思っているでしょうか。楽しさは一瞬で、また次の楽しさを目指して、結局忙しくしています。

子どもの楽しさは、もっと単純です。草むらを駆けまわったり、好きなゲームに熱中したり、楽しい要素は身近にあります。

よく、歳をとると子どもに戻る、と言われるのは、この単純なことを楽しむ能力が回復してくるからではないかと私は思っています。お金や見栄えではないのです。

高齢になれば、人の目はどうでもいい、自分が「楽しいか、楽しくないか」で生きる子どものようなところが、100歳まで生きる人たちの共通点に思えてきます。

老いは冒険。楽しんで生きる

自分軸で動いているので、人に何を言われてもぶれません。

画家の熊谷守一氏は、何十年も自宅の庭から外に出ずに過ごしました。妻と碁を打って、庭を眺めて絵を描く。それだけで「楽しい」一日があったのでしょう。

長生きした醍醐味だいごみというのは、子どものような自分に戻ることなのかもしれません。

ある学者さんは「老いは発見だ」とも言います。できたことができなくなっていきます。びんふたが開けられない、小さな段差でつまずく、固いものが食べられなくなる。「人間はこうやって衰えていくのだ」と考え工夫していくのだそうです。

なにげなく生きて生活していたことに壁ができて、それを克服していく。まさに冒険ですね。冒険のやり方はさまざまです。子ども時代より個体差がとても大きいので、自分の冒険は自分で対処していくしかありません。先達せんだつの教えやネット情報にも役に立つものも役に立たないものもあるので、自分の経験と勘が大事になります。

この冒険のお供は楽しむ心です。

「あれもできなくなった」「こんなことができない」。できないことを数える人がいますが、「こんなこともできなくなったのか」と驚き、さてどうするか考え、その状態で楽しめることを考える。

100歳を生きる人に必要なのは、なんでも楽しんで生きるように工夫する気持ちです。

和田秀樹『100歳の超え方』(廣済堂出版)

96歳で亡くなった俳人の金子兜太とうたさんが晩年によく講演で話していたのは、尿瓶の話です。夜に何度もトイレへ行きたくなる。しかし布団を出るのが嫌だ。トイレへ行っても夜の転倒が怖い。

そのために尿瓶を使ってみたら、実によい具合で、すっきりして眠れるそうです。こんないいものがあったのかと人にすすめていました。これもひとつの発見です。

若いときには気がつかなかった発見を楽しんでみる。自分の失敗も笑い話にしてみると、楽しい出来事に変換されます。

老いをあまり怖がらずに、自分の力をどこまで楽しめるか、生きられるだけ生きていきましょう。100歳に届くかどうか、息の長い実験と考えて気長に構えてください。

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