健さんが演じる姿は頭の中にあるけれど…
たとえば『羊の目』(2008年、文藝春秋)です。
やくざの世界を描いたものだけれど、単なる復讐譚ではなく、「親は何か」をテーマにしたものです。産んでくれた親でなくとも、自分が親と決めたら、絶対に裏切らない。それを美徳と考えるか否か。昔のやくざの世界にはあった。私はやくざの世界を称賛するわけではない。
しかし、戦後日本人が失いつつある、親についての捉え方をテーマにしたかった。やはり創作というものは、文字になっているものとは別に確固たるテーマが内在していない限り文学にはならないと思うんだ。
まあ、ちょっと話はそれたけれど、『羊の目』を読んだ人は全員、「主人公は高倉健だ」と直感する。私自身もそう直感するんだけれど、これがなかなか映画にはならない。映像化するには難しい個所がいくつもあるから。
『丘の道』もいまだに書けていません。高倉健さんが丘の道を通って、うちに帰っていくという映像だけは僕の頭のなかにある。そのまま三十数年経っているわけです。
『いねむり先生』という作品は師事していた色川武大さんを描いたものです。来年、テレビになり、映画化もされることが決まっています。映画のプロデューサーがやってきて、「色川さん役について誰かイメージありますか」と聞かれました。
「いえ、まかせます…….。でも、プロデューサーは執拗でした。
健さんに「ギャンブル好き」を演じてもらいたい
「伊集院先生、頭のなかに誰か俳優さんがいらっしゃるでしょう。どなたでもかまいません。口にしてみてください」
「確かに理想はひとりいる。しかし、口にしたからといって実現することはありませんから。まかせます」
「この場だけでも聞かせてください」
仕方ないので言いました。
「高倉健さんです」
プロデューサーはびっくりしていました。だから、私は続けて言いました。
「あなたたちにはとても想像つかないでしょう。健さんが色川さんの役をやることを。高倉健がギャンブルばかりして、ナルコレプシーで眠り込んでしまうなんて……。だが、私は想像できる。高倉健さんの姿を思い浮かべることができる」
なぜ、高倉健さんなのか。
色川さんと競輪場へ行ったことが何度もある。色川さんや私のような常連は「メッセンジャー」という若い女性に来てもらって、車券を買う。予想が当たったら、彼女たちが配当金を持ってきてくれるわけだ。
ある日のことだった。色川さんをはじめ一〇人くらいいたかな。予想が当たってメッセンジャーが配当金を持ってきた。中を見たら、競輪場の計算違いで、何十万円かの金が余計に戻ってきたんです。競輪場の配当ってのはすべて切り下げて計算される。だから、競輪場はそのようなミスでも補填がきくようにしてある。