二代将軍・秀忠は暴れん坊の政宗を統率しようとした
秀忠にすれば、これら一癖も二癖もある東北きっての曲者大名たちを統制してみせることが、おのれの大器を天下に示す絶好の機会だった。
また、徳川と過去に悶着のあった上杉・佐竹にすれば、今後の浮沈を占う重要な戦役である。両者とも奮戦せざるを得ない。
伊達にすれば、どちらも油断ならない大名である。無理をする必要はないにしても、ある程度の武功を立てなければ、安泰とは言い切れないのだ。
動機は違えど、大坂の陣において、それぞれ株を上げあうための共闘が期待されていた。
さて、「一番手」に任じられた伊達政宗の反応を見ていこう。
政宗は仙台城にいた。
伊達家の記録によると、10月7日に「大坂御陣触」が届いたようである。上杉や佐竹も同じ頃10月初旬に陣触れが届いて、ぞろぞろと動き始めている。
これについて、水戸藩士・小早川能久『翁物語』は、この時の伊達家中のできごとを伊達家臣と思われる「須田伯耆守」から聞いた話として、少し気になる記述をしている。
陣触れが届いた日付を「九月廿七日(27日)ト覚エシト云ル也」と記しており、政宗も「来月朔日(1日)出陣」すると述べたというのである。政宗は通説より10日も前から動き出しているのである。
「秀忠御先手一番」としての政宗の意気込み
須田の証言によると、政宗は早朝から城内の馬場で騎馬武者たちの調練を見ていた。そこへ秀忠から「天下ノ御用」を伝える火急の「飛脚」がやって来た。
政宗は将軍からのご奉書を見るなり、険しい顔をして、広間に移動した。そして評定を開くなり、「3日後に出陣する。急ぎ、鉄砲6000と馬上120を集めよ!」と家臣たちに命じた。
このため、伊達家は上へ下への大騒ぎになったという。
ところが先にも述べたように、秀忠からの出陣命令は10月4日に発せられ、政宗の動きは7日からであることが当時の文書からも看取される。ほかの大名の記録を見渡しても、9月中に陣触れが届いたと伝えるものはない。
するとこれは須田の記憶違いということになりそうだが、実は須田の証言を裏付ける伊達政宗の書状写がある(『伊達政宗記録事蹟考記』20巻所収文書)。
九月廿八日
美作(伊達忠宗)殿
この政宗書状は写のみで、原本は現存しないが、意図的に創作または改変される理由のない内容である。信頼度は一定度あるものと仮定できよう。