「師弟関係ではないし、松村氏に気兼ねする必要はない」

しかも牧野は自信家である。「私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係にあるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理屈はないと、私は相変わらず盛んにわが研究の結果を発表しておった。……それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に対して私の悪口さえ言われるという風で、私は実に困った。これが10年、20年、30年と続いたのだから、私の苦難は一通りではなかった」(『植物学90年』)ということで、松村と牧野の間はしっくりしないものとなった。

松村教授の植物学講義を聞いたひとりに原田三夫がいる。原田は雑誌『子供の科学』を創刊するなど、科学知識の普及に大きな足跡を残した、日本最初の本格的な科学ジャーナリストである。松村の講義は「とかく脱線して人の噂や世間話になり、気に入らぬ人は名を伏せて非難した。『ばばあ育ちのわが儘者で、頼んだことをやらない』といったのは、牧野富太郎先生のことであった」(『思い出の70年』)と回想している。

松村は「牧野は助手なのに頼んだことをやらない」と悪口を

松村にしてみれば、牧野は自分の助手であるから、思いのままに使いたいが「頼んだことをやらない」我がままな性格だし、牧野にしてみれば、「師弟の関係にあるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかった」というのだから、円満な人間関係を保つことは難しかっただろう。

写真=時事通信フォト
牧野富太郎像 牧野記念庭園(東京都練馬区)

牧野が助手だったころ、同じように正規の教育を受けない東大の助手に平瀬作五郎がいた。平瀬は安政3年(1856)越前国(福井県)の生まれ。絵画が得意なので画工として、植物標本の絵を描いたり、実験を手伝っていたのである。しかし努力家の平瀬は自らも顕微鏡をのぞいて研究し、研究者の池野成一郎の好意的な協力を得ながら、ついにイチョウの精子発見という画期的な業績をあげた。池野も同じ時期にソテツの精子を発見した。

この2人によるイチョウとソテツの精子発見は、当時の世界を驚かせる業績だった。なぜ世界を驚かせたのか、その意義は、簡単にいえば次のようなものである。ごく下等な生物を除き、生物の多くは精子と卵子が合体して子孫を残すのが基本である。生命は海のなかで生まれ進化したため、精子が泳いで卵子に到達するのが普通で、動物ではもっとも進化した人間でも、その名残をとどめている。