出奔しなければ殺されていた可能性

じつは、数正にはもうひとつの「失態」があった。先ほど、数正が出奔するときに小笠原貞慶の子を連れていった、と書いた。その親の貞慶自身が、家康が秀吉からの人質要求を拒んだのと同じ10月に、家康のもとを離れて秀吉に従属してしまった。この貞慶を指導する立場にあったのが数正だったから、数正の徳川家中での政治的発言力は、輪をかけて失われることになったのである。

「どうする家康」では、本多正信(松山ケンイチ)が探りを入れたところ、数正は大坂で飼い殺し状態に置かれていることが判明。長年仕えた主君を裏切った男が重用されるはずがないのを、なぜ数正は見抜けなかったのか、という描き方になるようだ。

しかし、数正が徳川家に残れば、もっとみじめな立場に置かれることになったに違いない。それどころか、命さえ覚束なかったかもしれない。

たとえば、織田信雄は家康と組んで小牧・長久手の戦いを起こすにあたって、親秀吉派の重臣、津川雄光、岡田重孝、浅井長時の3人を誅殺している。しかも、それは家康と協議したうえでの行動だった。

この時代、政争に敗れた以上は、いつ誅殺されても不思議ではなかった。しかも、いうまでもないが、数正は親秀吉派の信雄の重臣が殺害された事実をよく知っていた。もはや逃げるしか道がなかっただろう。

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誰よりも秀吉の強さを知っていた

ところで、数正はどうして秀吉と融和すべきだと、それほど強く主張したのだろうか。

天正12年(1584)11月、小牧・長久手の戦いの和睦が成立すると、同じ月に秀吉は従三位権大納言に叙任され、その後はあれよという間に高みに上り詰め、翌年7月には従一位関白になった。それと前後して秀吉は、小牧・長久手の戦いで信雄と家康に味方した勢力を次々と征伐していった。

天正13年(1585)正月には中国地方の毛利氏を従属させ、4月には畿内を平定。関白になった翌月には四国を平定し、さらには先に記した佐々成政を従属させた。すでに越後(新潟県)の上杉氏は秀吉に従っており、関東北東部の佐竹氏も秀吉の支配下にあった。つまり家康と北条氏は、秀吉の勢力によって周囲をすっかり囲まれてしまっていた。

このように秀吉が圧倒的に強大な勢力を築いていることを、徳川家中でだれよりも知悉ちしつしていたのが数正だった。天正11年(1583)、秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破って越前(福井県)を平定したとき、祝賀の使節として秀吉のもとに遣わされて以来、外交担当としてたびたび秀吉のもとを訪れ、否が応でもでもその力を認識するほかなかった。

そうである以上、徳川家中の主戦派の意見に同調することは、数正にはできなかったのだろう。しかし、孤立して政争に敗れた以上は、そこに踏みとどまることは危険だと考えたに違いない。