たった1年で信長の評価が一変
信長は信玄が病死した(1573年)との噂を聞いた時「その跡は続くまい」との感想を漏らしたといいます。勝頼を見くびっていたと言えるかもしれませんが、その認識はすぐに改められることになります。
天正2年(1574)6月29日、信長は越後の大名・上杉謙信に宛てた書状のなかで「四郎(勝頼)若輩に候といえども、信玄の掟を守り、表裏たるべきの条、油断の儀なく候」(勝頼は若いが、信玄の掟を守り、表裏を心得た者であり、油断ならぬ)と述べているのです。
わずか1年の間に何があったのでしょうか? まず、1574年1月27日、勝頼は美濃と信濃の境にある岩村(現・岐阜県恵那市)にまで進出し、明知城を包囲します。
信長は同城救援のため、2月1日に軍勢を派遣。自らも2月5日に出陣します。しかし、救援に向かうまでの道中は険しい山中であり、難渋します。そうこうしているうちに、明知城において信長方の武将・飯羽間右衛門が武田方に寝返ったことで、同城が落城したとの報せが入ります(武田の調略であったとも推測されます)。
落城してしまっては手の打ちようがないということで、信長は周辺の城の普請を命じたり、城番を置いたり、対策を講じ、岐阜に撤退していきます(2月24日)。
わずか半年で18の城を撃破
武田軍の猛攻はさらに続き、織田方の城砦18城を陥落させたとされます。奥三河の武節城(豊田市)も攻略されました。同年5月には、勝頼は徳川方の高天神城を攻囲しています。6月14日には、信長がまたもや出陣。高天神城の落城を防ごうとしますが、同月17日に同城は開城。信長はまた虚しく岐阜に引き上げることになるのです(6月21日)。
信長が上杉方に勝頼を「なかなか油断ならぬ強敵だ」との書状を書くのは、この直後(6月29日)のことです。つまり、信長は天正2年6月までに起きた一連の出来事(明知城や高天神城の攻略。東美濃・奥三河への武田方の浸透)をもって、勝頼を「表裏たるべきの条、油断の儀なく」と評したことになります。
織田方の城砦を次々陥落させたこと、東美濃や奥三河にまで武田の勢力が浸したことなどから、信長は武田軍の機動力に驚き、勝頼を油断ならぬと感じたのではないでしょうか。
余談となりますが、戦国武将・真田昌幸が豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評価されたことは有名です。「表裏比興の者」とは「老獪な食わせ者」といったような意味合いですが、信長が勝頼を「表裏たるべきの条」と評したことも、それと同じような意味合いでしょう。