熟考して出した結論は、妥協せずに貫く

学者と言っても、植田氏は机上の論に終始するタイプではない。85年から旧大蔵省の財政金融研究所の主任研究官を経験し、98年から日本銀行政策委員会審議委員を7年間務めた。数学から経済学へ転じて世界一流の教育を受け、実務でも研鑽けんさんを積んだ稀有な人材といえる。

彼の印象は、ずっと「ソフト・スポークンな人あたりのよい人」であるが、信念を曲げない強さもある。2000年8月の金融政策決定会合の議事録を読むと、ゼロ金利政策を終了するか否かが検討された議論で、速水はやみまさる総裁(当時)が伝統的なプラス金利に戻す提案を行い、植田氏は中原伸之氏と反対票を投じている。

会合の終盤、全員一致での決定を目指した藤原作弥副総裁が「お考えを少し微修正していただけるなら非常にありがたい」と翻意を働きかけるも、植田氏は「是非賛成してくださいというだけでは変えられない」と突っぱねている。熟考して出した結論は、妥協せずに貫く。この姿勢から、私は植田氏が総裁として大事な資質を備えていると考える。

日本は戦後、円安とインフレ気味の経済で「奇跡の成長」を遂げた。だが85年の「プラザ合意」で円高基調への転換を呑まされ、円高不況に対する懸念から一時は低金利政策を導入した結果、土地・株式のバブルを招いた。

これに懲りて、三重野みえのやすし総裁(89年12月〜94年12月)は「平成の鬼平おにへい」と言われるように金融引き締めに転じ、以降、速水総裁(98年3月〜03年3月)、白川方明まさあき総裁(08年4月〜13年3月)と、歴代の総裁はほぼ一貫して引き締め基調で円高を志向した。それが行きすぎて90年以降の日本経済は成長を止めてしまった。

例外は福井俊彦総裁(03年3月〜08年3月)で、就任直後から量的緩和策を積極的に進めた。円安を追い風に日本経済は回復に向かったものの、任期の半ば06年3月に緩和政策を解除してしまい、デフレを脱却することはできなかった。

08年9月にリーマン・ショックが起こり、これに対処するため各国の中央銀行は大規模な通貨供給を始めた。だが当時白川総裁下の日銀は、日本が金融危機でなかったこともあり十分に金融緩和せず、極端な円高を進行させてしまった。輸出企業は競争力を失い、生産拠点を海外につくるなどして対処したため、国内雇用も低迷。生産性も停滞した。

この悪循環を変えたのが黒田東彦はるひこ総裁(13年3月〜)だ。異次元の金融緩和政策を導入し、それまでの極端な円高を正常に戻した。アベノミクスの一環として、19年半ば、コロナ禍の前までで約500万人の雇用を生んだのである。