迷路のような通路になったワケ

さて菱の門だが、左右が非対称で、向かって左側だけが石垣に載る姿が変則的である。続く「いの門」も「ろの門」も、形状は高麗門だが、ともに片側にだけ脇戸がついており、左右対称ではない。

その先の、右手の土塀と左手の石垣にはさまれた狭い坂は、テレビドラマ「暴れん坊将軍」のエンディングに使われたことから、俗に将軍坂とよばれているが、左手の石垣は一部が野面積で、のちに修復した痕はあるものの、羽柴時代の石積みが基礎になっているのは明らかだ。

その先にある「はの門」は、門柱の礎石に燈籠や五輪塔の一部が転用されており、これも石材の供給体制が整っていなかった羽柴時代の特徴である。

姫路城「はの門」(『教養としての日本の城』より)

はの門を抜けて右折すると、左手の石垣はやはり野面積で、勾配がゆるく算木積も整っておらず、羽柴時代の特徴が顕著に見てとれる。

ここで天守が間近に見えてくるが、進路はヘアピンカーブのようにほぼ180度転回して天守から遠ざかり、急に道が狭くなって「にの門」に向かう。

これは櫓の下をくぐるトンネルのような門で、抜けると進路はふたたび90度屈曲する。このように天守までの道のりは、さながら迷路である。

旧式の縄張りと最新技術のハイブリッドこうした複雑な進路は、敵の攻撃を削ぐうえで有効だったに違いない。

また、建造物が幾重にも重なり合った姫路城ならではの美しさも、曲輪や通路がこうして入り組んで配置され、そのうえに櫓や塀が構築されることで生じたものである。

だが、それが意図されたものかといえば、どうやらそうではない。

羽柴秀吉が残したもの

姫路城の内曲輪は、本多時代に西の丸が整備された鷺山は別にして、地山の形状や高低差など、元来の地形を活かしながら小さな曲輪をひな壇上にならべた、羽柴時代の縄張りを活用して築かれている。

事実、ここまでに確認したほかにも、天守を取り囲む乾曲輪、西北腰曲輪、北腰曲輪、そして上山里曲輪などは、羽柴時代の石垣に囲まれている。

羽柴時代に積まれた上山里曲輪の二段の石垣(『教養としての日本の城』より)

しかし、築城技術、ことさら石垣を積む技術は、信長の安土城以降、関ヶ原合戦前後までの20余年で著しく向上した。

要するに、池田輝政が姫山の縄張りを構築する際、土木技術が未熟だった時代に造成された構造を活かしたために、つづら折りの迷路のような通路ができ上がったというわけだ。