炎上が激しくなるほど、抵抗感は小さくなる

とくに、「怒ってはいけない」というしつけや教育を幼い頃から受けてきて、怒ることに恥ずかしさと後ろめたさを感じている人ほど、こうした正当化によって便乗への抵抗が小さくなるのではないか。「他の人も怒っているのだから……」と思えば、そういう気持ちを払拭できるからだ。

いわば「赤信号みんなで渡れば怖くない」という心理が働き、他人の怒りを口実にして心理的な抵抗なしに怒ることができる。当然、怒りのコメントを残している人がほかにも大勢いるほど、そして他のコメントが手厳しいほど、抵抗は小さくなる。

心理的な抵抗が小さくなると、怒りの対象だったはずの発言や記事がそもそもどんな内容だったのかも、どのような文脈で発信されたのかも、それほど重要ではなくなる。なかには、そんなものはどうでもいいとさえ思う人もいるようだ。

こういう人の多くは、「誰でもいいから叩きたい」という欲望に駆り立てられている。とにかく誰かに「けしからん」と怒りをぶつけることによってしか、心中にたまっているわだかまりやしこりを解消できないのかもしれない。

写真=iStock.com/RobertPetrovic
※写真はイメージです

羨望を押し隠して、優越感に浸る人たち

そのうえ、怒ることによって優越感も味わえる。怒りのコメントが多いのは、たいてい不祥事や失言などがあったときなので、そういう“失点”を厳しく責め、そんな“失点”は自分にはないと強調すれば、自分のほうが優位に立てる。

こうした優越感は、相手が大物であるほど味わえる。当然、政治家や芸能人は絶好のターゲットになる。この手の有名人は大衆の羨望をかき立てる存在であり、羨望とは他人の幸福が我慢できない怒りにほかならないので、羨望の対象を叩くことによって得られる優越感は格別だろう。

厄介なことに、羨望とは最も陰湿で、恥ずべき感情である。だから、そういう感情が自分の心の中にあることを認めたくない人が多い。しかも、羨望を抱いている自覚がない人ほど、正義感の衣をかぶせる。たとえば、「不倫するなんて人倫にもとる」「あんな暴言を吐くなんて政治家として失格」といった“正論”を吐く。

このような人が増え、バッシングが激しくなれば、その対象になった有名人が自殺に追い込まれかねない。実際、炎上によって自殺者が出たこともある。それでも、叩いた側は必ずしも自分が悪いとは思わない。

なぜかといえば「みんな叩いているんだから自分もやってもいい」という理屈で正当化されるからだ。おまけに、集団で袋叩きにするので、どこまで自分の責任なのかがあいまいになり、罪悪感が払拭される。