史料に書かれた後鳥羽上皇の評価
1192年に祖父・後白河法皇が崩御されるまでは院政が続いていましたが、法皇の死により、天皇親政となります。後鳥羽上皇は、第一皇子の土御門天皇に位を譲られた後は、院政を敷きます(1198年〜1221年)。土御門天皇はこの時、僅か3歳でした。
後鳥羽上皇は、承久の乱で敗北したということもあり、歴史的評価は芳しくありません。
例えば「水戸黄門」の「格さん」のモデルともいわれる江戸中期の水戸藩士で歴史家の安積澹泊(通称・覚兵衛)はその著書『大日本史賛藪』のなかで「昔より未だ神器のない状態で即位した天皇はいなかった。よって後鳥羽天皇の践祚は、便宜的なもので、後世までの先例とするべきではない」「上皇となった後鳥羽は、北条義時の専横を憎み、これを討伐されようとした。これはまことに立派なことである。しかし、ご自身は徳がなく、時勢にも暗かった。武将も大した者がいなかったので、兵に規律なく、戦に勝利できないのも当然だった」と、上皇の不徳を批判しています。
また、江戸時代後期の歴史家・頼山陽も、上皇の鎌倉幕府に対する挙兵は「志あり」として評価するものの「謀なし」(『日本政記』)と、承久の乱の敗北を謀略・戦略の欠如に求めているのです。
後世の歴史家だけではありません。上皇と同時代に生きた者も、上皇を批判的に見る人もいました。関白・藤原忠通の子として生まれ、比叡山延暦寺の住職となった鎌倉時代初期の僧侶・慈円もそうです。
その著書『愚管抄』において「後鳥羽上皇は、表面上は摂政・関白を用いるようになさりながら、心の底では、それを奇怪なものとして、疎ましく思っておられる。上皇(院)の近臣は摂政・関白を悪く言えば、上皇のお心に叶うことを知っている。このようなことが、世を滅ぼしていくのだ」「将軍を上皇が理由なく憎まれることはよろしくない」などと上皇の政道を非難しているのでした。
文武に優れた教養人
散々な評価の後鳥羽上皇ですが、評価の見直しも行われています。
上皇は和歌に優れ、1201年には、和歌に優れた歌人を集め、和歌所を置いています。多芸多才だった上皇は、蹴鞠・琵琶・秦箏・笛なども好まれました。
相撲・水練(水泳)・射芸(弓を射る術)などの武技も嗜まれたといいます(上皇は、側近の貴族に武士と同様の武技の訓練を行いますが、なかには、なぜ武士の所業をまねしなければならんと批判的に見ていたものもいたはずです)。
さらには、太刀を製作・鑑定するなどされました。文化面の功績から、上皇を評価する声も高いのです。
例えば、『新古今和歌集』(全20巻)は、後鳥羽上皇の命令により編纂された勅撰和歌集です。歌数は約2000首で、上皇の歌も33首採録されています。『新古今集』は、万葉調・古今調とともに、新古今調として、後世に大きな影響を及ぼした和歌集として知られています。
その和歌集編纂の命を下し、自身の和歌も採録されているのですから、後鳥羽上皇の教養は相当のものだったといえるでしょう。