実は朝廷と幕府の良好な関係を望んでいた

ドラマにおいては「悪役」の上皇は、義時が牛耳る幕府を嫌っているように描かれていますが、決してそうした面ばかりではありませんでした。

上皇は一貫して幕府を邪険に扱ってはいません。3代将軍・源実朝に子がいないことで、幕府に後継者問題が持ち上がった際、幕府としては、実朝の後継を上皇の皇子(頼仁親王か雅成親王)にしたいと考えていました。

源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)
源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)(写真=Hannah/PD-Japan/Wikimedia Commons

この幕府の「親王将軍」構想に、上皇は賛意を示していたのです。実朝との関係も良好でした。上皇は実朝の官位を上昇させるよう計らっていましたし、実朝も上皇に対し、「山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」(山が裂け、海が干上がるような世であったとしても、君(後鳥羽上皇)にそむく心は私にはありません)との和歌(『金槐和歌集』所収)を詠んでいました。良好な公武(朝廷と幕府)関係が続いていたのです。

上皇は、幕府が朝廷を敬い、朝廷が幕府をうまくコントロールできる体制を望んでいたといえます。

3代将軍・実朝に対しての思い

そこに影がさしたのが、実朝暗殺(1219年)でした。

実朝暗殺後、上皇は実朝の祈祷をしていた陰陽師を全て解任しています。

かつては実朝を調伏(呪詛)していたことの証拠隠滅のための解任とも解釈されていました。しかし、上皇と実朝の関係は良好であったことから、呪詛ではなく、実朝の安泰を祈念させていたとされています。つまり、陰陽師解任は証拠隠滅ではなく、実朝の身を守護することができなかった陰陽師への上皇の怒りだと言えるでしょう。

上皇はそこまで幕府の将軍(実朝)のことを考えていたのです。

実朝暗殺がなければ、承久の乱は勃発しなかった

実朝の死後、進んでいた「親王将軍」構想は頓挫します。上皇が、親王を鎌倉に下向させることを嫌がったのです。

親王の鎌倉下向は「日本国を2つに分けることになるので、そのようなことはできない」とお考えになり、関白・摂政の子ならば下向は可能とされたのです(『愚管抄』)。

ここから実朝亡き幕府への上皇の不信感がうかがえます。「歴史にもしも」は禁物と言われますが、実朝暗殺がなければ、承久の乱は勃発しなかった可能性が高いと思われます。