当代きっての教養人の最期
実朝の死を上皇は鎌倉に使者を派遣して悼みますが(1219年3月9日)、それとともに、上皇は使者をして、義時に「摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職をやめるように」との命令を出します。
両荘は、上皇の愛妾で白拍子・亀菊に与えられていました。だが、義時は、地頭の撤廃は、幕府の根幹を揺るがすことになるとして拒否。弟・北条時房に千騎の軍勢を率いて上洛させ、その返答をさせるのでした。
「わが願いをはねつけるとは」と上皇は怒ったに違いありません。承久の乱は、幕府(中心には義時)が上皇のコントロール不能になったことにより、勃発したと考えられます。
承久の乱の上皇方の敗北により、上皇方に加勢した者の所領は幕府に没収されます。そして、東国出身の御家人が、その地の地頭に任命されるのです。それにより、幕府は西国にも権力を浸透させていくのでした。
上皇方に勝利したことにより、幕府の発言力は増し、皇位継承にも幕府の意向が重視されるようになりました。隠岐島に配流された上皇は、都に帰還されることなく、1239年に同地で崩御されるのです。