なぜ後鳥羽上皇がラスボスとして描かれているのか
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽上皇役を歌舞伎役者の尾上松也さんが演じています。この後鳥羽上皇、同ドラマにおいては「ラスボス」(最後の壁として立ちはだかる存在のことで、ラストに登場するボスキャラクター=ラストボス」の略語)と称されています。なぜ、そう呼ばれているのでしょう。
おそらく、ドラマは、1224年6月、主人公・北条義時の死で幕を閉じると思われます。義時の人生を簡単に振り返ると、幕府の有力御家人として力を付けてきたのは鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が死去(1199年)してからです。
ライバル・比企氏を滅ぼし(1203年)、父・北条時政を政界から追放(1205年)。さらに将軍御所を炎上させた和田義盛との和田合戦(1213年)を勝ち抜いた彼が、晩年に直面した大きな試練が承久の乱(1221年)でした。
後鳥羽上皇が、幕府執権の義時を追討するために挙兵、勃発した兵乱が承久の乱なのです。以上が、上皇が「ラスボス」と称されるゆえんでしょう。
しかし、ラスボスという呼称も、北条義時側からの見方でしかありません。
ずっと抱いていた“あるコンプレックス”
では、後鳥羽上皇はどのような人物だったのか。
上皇は、1180年7月、高倉天皇の第4皇子として生を受けました。母は、坊門信隆の娘・殖子です。義時は1163年生まれとされていますので、上皇の方が17歳も年下でした。上皇の異母兄には、平清盛の娘・建礼門院が生んだ安徳天皇がおられました。しかし、安徳天皇は、平家都落ちの際に西海に連行されてしまいます(1183年)。
都に天皇が不在という事態を解消するべく、祖父・後白河法皇の意向により、践祚(天皇位を受け継ぐこと)したのが、後鳥羽だったのです。
治承・寿永の内乱(源平合戦)という世の動乱がなければ、後鳥羽が後にこれほどまでも歴史の表舞台に登場するといったことは、もしかしたらなかったかもしれません。
平家は皇位の象徴である三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八坂瓊曲玉)も都から持って出ていました。
よって、後鳥羽は三種の神器がない状態で、天皇位を継いだことになります。1185年、壇ノ浦合戦により、平家は滅亡しますが、神器の1つの宝剣は海中に沈み、捜索されるも発見されることはありませんでした。よって、1190年に、後鳥羽の元服の儀式が行われた際も、三種の神器がそろわない状態であったので、代用の剣が活用されました。
三種の神器がそろわない状態での即位は、後鳥羽にとっては不本意で、それがコンプレックスにつながったのではないかとの見解もあります。