死を語れない医師たち
ホスピスで緩和ケアを受ける人たちは、まさに「ファーストクラス」の切符で旅立ちます。死の過程にはよく、「旅立ち」という隠喩が使われます。
緩和ケアの専門家であるデレク・ドイル医師は、著書『プラットフォームの切符』(未邦訳)で、人生の終末期にいる人々とかかわる医師のリアルな日常を描いています。それは、まさに鉄道駅の光景で、列車に乗る人がいれば、それを手伝うためプラットフォーム[訳注:駅のホーム]に残る人がいます。
死にゆく人のケアをする私たちはプラットフォームにいて、正しい場所や快適な場所を探すのを手伝い、手荷物を載せ込み、関係者すべてにお別れの挨拶をしたかを確認します。
みんな列車には乗りますが、うまく乗れない人もいます。緩和ケアと安楽死を一緒くたにとらえる人も多いのですが、これはとても残念なことです。最期のときが近い患者を診るとき、「この医師は患者の命を終わらせるのではないか」と家族は心配します。私は、患者や家族やスタッフなどすべての関係者にケアの意味を説明しなければなりません。
スタッフに考え方を理解させるのも大変
患者の死が迫ってくると、私は「自然死の意思あり」とカルテに書きますが、看護スタッフからはおかしな反応が返ってくることがあります。「先生、では鎮静を始めますか?」と。そうなると、私はまた一から説明しなければならなくなります。
「赤ちゃんはどのように産まれてきますか? 産まれるのに鎮静が必要ですか? 産まれるときも死ぬときも、鎮静する必要などないのです。自然に産まれ、自然に生き、自然に死ぬのです。私の言っていることがわかりますか?」
……こんなふうに、つぶさに説明しなければならないときもあります。患者の家族に納得してもらうより、看護師や栄養士や言語療法士や理学療法士(さらにやっかいなのは医師です)に理解させるほうが難しいのです。
読者の皆さんには、そんなやっかいな医師をどうか許していただきたいと思います。大学の医学部では、「死」について語るすべを教えてもらえません。そもそも人生について語るすべすら学んでいないのです。私たちが学ぶのは病気のことだけなので、医師の語彙や議論はとても限られたものになります。