川島と同じ87年夏の甲子園で、「今まで見た(投手の)中で一番速い」と対戦校の監督を驚かせ、プロのスカウトから二重丸の評価を受けたのが、佐賀工の江口孝義だ。

甲子園の初戦、東海大甲府戦ではMAX143キロを計測し、センバツ4強で夏も優勝候補だった強打のチームを4安打9奪三振と力でねじ伏せた。冒頭のコメントは、敗れた東海大甲府・大八木治監督が口にしたものだ。

ネット裏のスカウトたちも、江口を同年の“ドラ1組”伊良部、橋本、川島と同等以上に評価した。

だが、習志野戦では別人のように球威を欠き、まさかの5失点KO。大会屈指の本格派の評価は変わらなかったものの、江口はプロ入りを拒否してNTT九州に入社した。

社会人2年目に野茂英雄、潮崎哲也とともに全日本代表メンバーに選ばれた江口は、キューバ戦で2回を無失点に抑え、「プロで三振を奪えるのは、野茂のフォーク、潮崎のシンカー、江口のストレート」と並び称された。

翌90年3月のスポニチ大会でも147キロをマークし、秋のドラフトの目玉になったが、4月に右肩を痛め、再びプロ拒否を表明した。そんななか、地元のダイエーが3位指名し、肩の治療を約束するなど熱心に勧誘すると、一転入団。「肩を治して平和台で1勝したい」と誓った。

リハビリを経て、91年9月11日のロッテ戦でプロデビュー。翌92年は、1軍昇格後、5試合で防御率1.08と安定した成績を残し、6月18日のオリックス戦でプロ初先発したが、高橋智、小川博文に連続被弾するなど、3回途中6失点で負け投手に。

その後も右肩の状態は思わしくなく、96年に「嵩芳」と改名し、心機一転を期したが、1軍登板のないまま同年限りで現役引退。「福岡ドームで投げる」夢をはたせずに終わった。

引退後、理学療法士の国家試験に合格し、オリックス、ソフトバンクのトレーナーを務めた。

04年夏の甲子園で、ダルビッシュ有(東北)、涌井秀章(横浜)とともに“高校生ビッグ3”と注目を集めたのが、秋田商の佐藤剛士だ。