写真の町を宣言して「写真の町」がスタート

東川町は国内最大の山岳公園である大雪山国立公園区域内にあり、北海道最高峰の旭岳など美しい景観に恵まれている。それを財産と考え、「写真映りのよい町」というのなら「写真の町」は分からないでもない。

当時の中川音治町長は熟慮を重ねた。議会や観光協会、商工会など関係団体とも協議を重ねた上で提案を受け入れ、1985年6月1日に「写真の町」を宣言した。

筆者撮影
町の職員は電話を受けた際「写真の町、東川町です」と出るそう。役場の表記を含め、とにかく徹底している。

同年から東川町国際写真フェスティバル(以下フォトフェスタ)を開催し、写真の町東川賞を創設した。特筆すべきは翌年に「写真の町に関する条例」を制定したことだ。

これは町長が変わっても施策が変わらないようにという措置だ。

議会の同意を得て条例を制定した以上、「写真の町」を廃止したり、取り下げたりする際には制定時同様、議会と町民同意が必要であることを明記した条例だ。

大きな決意でスタートした写真の町だが、最初からうまくいったわけではない。

当時、北海道のさまざまな町ではリゾート開発など目に見える投資が行われていた。それに比べると文化への投資は目に見えない。

写真の町東川賞では海外作家賞、国内作家賞などの4部門(現在は5部門)に毎年町の一般会計予算から賞金を出しており、その予算の使い方に疑問を抱く町民もいたはずだ。

人口が増加に転じた2つの理由

しかし、フォトフェスタを続け、国内外の著名写真家を取り上げ続けることで東川町は町としてのアイデンティティーを確立していく。

その結果1994年に生まれたのが、全国の高校写真部・サークルを対象とした「全国高等学校写真選手権大会」(愛称:写真甲子園)だ。

1994年にスタートしたこの大会は、東川町の名を全国的に知らしめた。各メディアが取り上げたことにより、町の魅力を知った移住者がわずかながら生まれ始めた。

さらに、家具メーカーの「北の住まい設計社」が1985年に工房を町内に構えたことも大きい。

同社の製品は自然に優しい天然の素材を使用しており、質にこだわるライフスタイルを求める人たちから人気があった。

町内の山奥にある廃校を改装して作られた工房に引かれるように、家具や木工作品などを作るクラフト作家たちが移住を始めのだ。

1993年の東川町の人口は7063人。そこから、人数は平均すると年に数十人ほどだが、緩やかに人口は増えていく。

出典=東川町役場「東川町の統計」より