「脱成長」の主張が一定の評価を受けるようになる
暗い未来ばかりを予感させる「スタグフレーション」の時代は、しかし他方で大きな社会変革の可能性を持っている側面もある。
マイケル・サンデルが近年に行っていたような能力主義批判が、それなりの注目を集めながらも実際的な取り組みとしてはフィードバックされなかったのは、彼の主張に現実性や説得力がなかったからではない。能力主義が依然としてそのヒエラルキーの勝利者に十分すぎるメリットを提供していたからである。能力主義が大きな社会的不公正を内包していると世の人びとは気づいてはいたが、しかしそうはいっても、その不公正に目をつぶるくらいには「うまみ」を自分たちに与えてくれていたからこそ訣別できなかったのだ。
だが「スタグフレーション」はすなわち「成長を失う社会」を現出するものでもあるため、旧来的な価値観のまま能力主義的な序列化構造と自己責任論をいくら擁護しても、かつてほど「勝利者としての“うまみ”」が得られなくなっていく。能力主義が人びとにこれまでのようなメリットを提供できなくなれば、だれもが別の形で幸福を模索することを余儀なくされる。
いままで「精神的な豊かさの方が大事だ!」と言っていた、いわゆる「脱成長論」系の論者がいまひとつ大衆社会からの支持を集められなかったのは、結局は「脱成長」によって得られるメリットよりも、能力主義とそれに紐づいたメリットの方がずっと大きかったからだ。経済成長から積極的に背を向けるかれらのラディカルな「脱成長」の主張は依然として机上の空論として扱われるかもしれないが、経済的成功と個人的幸福を強く結びつけることへの批判という側面では、かれらがまったく予想していなかったであろう時代の偶然によって再評価されることになる。
本当の意味で「多様な幸福を見つけ出すこと」が求められる時代になる
本当の意味で「多様な生き方(多様性)」が問われるのはこれからかもしれない。
これまでの時代に見出されてきた「多様性」は結局のところ、生産性や合理性の評価軸から抜け出すことはかなわなかった。次々に提唱される「新しい生き方」はいずれも最終的には経済的優位性・経済的合理性をどうしても意識しなければならなかった。それ自体が資本主義を脱構築するものではなくて、資本主義からこぼれ出てしまう人を補完的に包摂するオプション――もっといえば、既存の資本主義社会をより万全なシステムへと補強するためのサポート役――になってしまっていた。
しかし「スタグフレーション」により、能力主義的な序列化と経済優位性をベースとしていない、本当の意味で多様な幸福を見つけ出す営みを、否応なしに要求されていく時代になる。荒涼とした「自衛」の時代の果てに、カネだけをひたすらに防衛することに人生を費やしてきたことへのむなしさがやってくる。
いったい私たちは何のために生きるのか?
カネを稼ぎ、それを守るために生きるのか?
その問から私たちは逃げられなくなる。
私たちが本当の「幸福」を見出せるとしたら、そのときかもしれない。