自社物件にも仲介物件にも満足してもらえなかったら、どうするか?

私は1991年、新卒でマンションデベロッパーのリクルートコスモス(現コスモスイニシア)に入社しました。そこで短期間、マンション販売の営業をしていたのですが、そのときお客さまに他社の物件を紹介するという出来事がありました。

そのお客様は30代共働きのご夫婦で、ご希望の物件に申し込んだところ、ローンの審査に通らなかったのです。まだバブル経済の余韻が残り、不動産価格は高く、金利も高い時期でした。

審査の結果にご夫婦はとても落胆されました。その様子を目にし、私は「何とかして、このご夫婦に良い物件を探してあげたい」という思いから、いくつか条件に合いそうな自社の物件を紹介したのですが、結局、満足していただくことはできませんでした。

そこで、「似た条件の物件が出ていたら教えてください」と周辺の不動産屋に中古マンションの紹介を頼んで回りました。私の本来の仕事は自社の新築物件を販売することですが、中古物件を仲介すれば手数料が入るのです。そのご夫婦には全部で40件ほど紹介しましたが、それでも決まりませんでした。残された選択肢は、他社の新築物件ということになります。

私は客のふりをして「これは」と思う他社のモデルルームなどを回り、パンフレットと価格表をもらって、それをお客様に届け、「ぼくは仲介できないので、もし気に入った物件がありましたら、ご自身で予約してください」とお伝えしたのです。するとその中に気に入っていただける物件があり、ついに契約をされました。

契約後、お客様が私を訪ねてくださり、「あなたのおかげです」と満面の笑みで言ってくれました。「井上さんが本当に私たちの立場に立って一生懸命探してくれたおかげで、素晴らしい物件に出会えました。どうもありがとうございました」と。

撮影=石橋素幸

この取引で私や会社には1円の収入にもならなかったけれど、非常に大きな幸福感を感じました。「ああ、こういうことか。仕事の醍醐味ってこれなんだ」と思いました。新卒で入社してまだ日も浅く、フレッシュだったときの経験でした。上司には叱られましたが、私は気になりませんでした。

会社が私に与えた宿題が「今月は何軒売る」ということであれば、売り上げをしっかり達成すればいいんだから、やり方は自分で決めればいい。あの手この手でお客様に売りつけるのではなく、お客様に満足してもらえることを第一に考えよう――。その時私は、このように決意したのです。