KGBから「ロシア連邦保安庁(FSB)」へ…権力の掌握に成功

ソ連崩壊直前の1991年8月、KGBは反ゴルバチョフのクーデターに参加し、再び権力を握ることを試みたが、クーデター失敗やソ連崩壊でそのチャンスを逃した。しかし、新しいチャンスはそれほど時が経たない内に訪れた。

それはエリツィン末期のことである。

当時、ロシアは酷い状況にあった。至る所に汚職が蔓延しており、1998年の経済危機とルーブル暴落により、国民生活は困窮を極めた。第一次チェチェン戦争でロシア軍が敗北したが、新興財閥であるオリガルヒは莫大な富を私物化し、不当な利益を貪っていた。

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来る2000年の大統領選挙において、ロシア共産党の勝利は現実的となっており、それを恐れたのが、エリツィン体制を支えていたオリガルヒである。共産党は企業の国営化や不当に得た財産の没収を主張していたからだ。

エリツィン自身も1991年にソ連共産党から権力を奪い取ったことから、共産党が再び政権を取れば、ただでは済まなかっただろう。だからエリツィン側近やオリガルヒは、彼らの安全や財産を保証し、操りやすい後継者を探り出したのだ。

ただし軍に頼り、軍事独裁体制を作ることはあまりにもリスクが高かったので、権力維持のために軍を使うことをオリガルヒは選択しなかった。

代わりに、彼らは謀略に長たけているFSB(ロシア連邦保安庁)に頼ることにした。FSBであれば、様々な工作を通じて、彼らの権力を維持する方法を見つけてくれるだろう、とオリガルヒは思っていた。

こうしてオリガルヒはFSBを利用しようとしたが、じつはFSB自体が権力掌握のチャンスを待っていた。そして現実に、権力を握ることに成功したのである。

無名だったプーチンが最高権力者になれたワケ

オリガルヒの各財閥は、保安系出身者と近い関係にあった。エリツィンに近いロマン・アブラモヴィッチとボリス・ベレゾフスキーは現役FSB長官のウラジーミル・プーチンを推していたが、他のオリガルヒはそれぞれに近いFSB関係者を推していた。

しかし組織としてのFSBからすると、後継者に誰が選ばれようが、オリガルヒが保安系出身者に頼ることを選んだ時点で、FSBがロシアを乗っ取ることは時間の問題だった。

結局、人事権は大統領のエリツィンにあったので、FSB長官のプーチン大佐が首相に任命され、事実上の後継者指名を受けた。首相となったプーチンは、一般市民の間で全くの無名であった。当然、支持率はゼロに近い。しかも、国民に嫌われたエリツィンから後継者指名を受けたことがマイナスに働いている。

この状況では、選挙に到底勝てない。そこで、FSBは得意の謀略を実行することにした。